先ほど浴槽に浸かっている最中、どうやら私が見る夢の中には、大きく分けると二つの極端な感情の塊が存在していることに気づいた。
一つは、途轍もない暴力性から生み出される、全てのものを打ち壊すような力強い感情である。もう一方は、全てのものを溶かし去ってしまうかのような感動的な感情だ。
昨夜の夢の中では、感極まって涙を流している自分がそこにいた。私が夢から強引に覚醒させられるのは、たいていの場合、破壊的な感情を発露させる瞬間か、感動的な感情を発露させる瞬間かのどちらかである。
どちらも定期的に自分の中に起こることなのだが、今朝は、全身的に振動が伝わるような感動の中で目を覚ました。その感動をもたらしたのは、至ってシンプルな理由であった。
どうやら夢の中で私は、「ある人がそこにいる」ということに対して、言葉にならないほどの感謝の念を持ち、それに対して涙を流していたようなのだ。そこでの感動は、大木と一体となったような太い感動だったと言っていいだろう。
樹液のような濃いい涙が滲み出さずにはいられないほどの感動だった。いついかなる時も、私を支え続けてくれているのは、破壊と感動なのかもしれない。そんなことを思わずにはいられなかった。 夕食後、そこからさらに破壊と感動との関係について考えていた。夢の中での出来事を振り返ると、往々にして、破壊的な感情を発露させた後にやってくるのは、単なる開放感ではないことに気づいた。
そこにはいつも、ある種の感動が付きまとうのだ。一見すると、これはとても奇妙なことのように思える。
夢の中で、私が暴力的なエネルギーを解き放つ時、それは対象のものを打ち壊すだけではなく、常にそこには再創造や新たな調和がもたらされる。つまり、破壊をすることが目的なわけではなく、何かを破壊して終わりではないのだ。
むしろ、破壊からの創造や調和を目的としているかのような様子が伺えるのだ。やはり、破壊と創造・調和というのは密接なつながりがあり、創造や調和には感動を引き起こすような何かが潜んでいる気がしてならない。そのようなことを思った。 今朝目を覚ました瞬間に、思わず大きな伸びをして一日を始めたくなるような、活力に満ち溢れた夢を昨夜見ていた。夢というのはいつも思うが、大変興味深い現象である。
未だ、夢という現象が持つ豊穣な意味の一片も掴めていない。夢とはまるで、無意識の世界における意味の玉手箱のようである。
夢が開示する意味、夢の種類や規則性など、今後も夢について小さな関心を持ち続けることになるだろう。自分が見る夢について何もわからないというのは、結局、自分について何もわかっていないことを示しているに他ならないのだ。2017/3/24