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847. 喜びという感情の本質


今日という一日を振り返ってみたとき、静かな喜びが、自分の全身に流れているのを絶えず感じながら仕事に取り組んでいたように思う。それは大きな喜びではなかったが、小さな喜びが、どこかに無限に続くかのような流れを持っていた。

静かに、そして小さく流れ出す喜びの感情は、私を遠いところに運んでくれるような気がしてならない。確かに、私は日々の生活の中で、自分の存在が破裂してしまうかのような強い喜びの感情に襲われることが度々ある。

だが、そうした爆発的な歓喜よりも、今この瞬間に感じている小さな喜びの感情の方が、私を遥か彼方に導いてくれるような気がしてならないのだ。自己が張り裂けてしまいそうな喜びは、小さな自己の付着を取り払い、何かを決壊させる役割を担っている。

一方、静かに滲み出す喜びは、今の想像を超えたところに私を運んでくれるような役割を担っているのだろう。そのようなことを思わずにはいられなかった。 早朝起床した時、普段通りにヨギティーを作っていた。ティーバッグのタグに付されている言葉を見るのは、毎朝のささやか楽しみでもある。

そこに付されていた言葉を翻訳すると、「他者の中に喜びを見出せ」「他者の中で喜びを感じよ」という意味であった。おそらく、この言葉が明記する「他者」というのは、物理的な他者だけを指すのではない。

それは、物理的な他者を含め、他の生物や社会的なものまでを含むであろう。そして何より、ここで明記されている「他者」という言葉が、「自己」であることに他ならないのではないかと思ったのだ。

つまり、他者の中に喜びを見出すというのは、自己の中に喜びを見出すことに他ならなず、自己の中に喜びを見出すというのは、他者の中に喜びを見出すことに他ならないのではないだろうか。 日々の活動の中で、私は「活動」という「他者」の中に喜びを見出し、それは自己の中に喜びを見出していることに他ならないことに気づく。そして、そうした活動には常に、物理的な他者や社会的なものが包摂されていることにも気づく。

そのような気づきを得てみると、日々の生活の中で、小さな喜びを感じながら遥か彼方の境地に辿り着くというのは、究極的な意味で、自己の中に他者を見つけることであり、他者の中に自己を見つけることを表しているように思えて仕方ない。

喜びという感情の本質は、きっとそこにあるのだろう。2017/3/18

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