
午前中のクネン先生とのミーティングの最後に、現在の研究とは直接関係のない二つのトピックについて話をしていた。一つ目は、査読付き論文についてである。
正直なところ、今の私は、クネン先生や他の教授と共同して、査読付き論文を世に送り出したいという気持ちを抑えることが難しい。というよりも、今の私は、書くという行為に取り憑かれ、意義のある論文をとにかく大量に書き続けたいという衝動に襲われている。
毎日毎日思うのは、英語にせよ日本語にせよ、日々私が書く文章量は圧倒的に少ない。自分が生み出す文章によって、自分の存在が溶解してしまうほどに、文章を書きたいのだ。
時間的な問題や私の知識体系の脆弱さによって、大量の文章を書くことができていないのだが、その日は必ずやってくると思っている。いや、その日が一刻も早くやってくることを望み、その日を迎えるために、私は毎日自らに修練を課しているのだと思う。
今日のクネン先生とのミーティングで改めて、自分の中にある未だ隠された熱を再度発見することができた。今の私は修練の時期にあり、辛抱の時期にある。
この時期を通過することができれば、いよいよ本格的に文章を大量に生み出すことに乗り出していくことができるだろう。 査読付き論文について、非常に基本的な質問をクネン先生に投げかけてみた。一つには、自分の現在の研究内容を考慮すると、どのジャーナルに応募するのが良いのかということである。
すると、クネン先生から幾つかの候補のジャーナルを教えてもらった。同時に、最近は、科学者向けの閉じられたジャーナルではなく、広く一般の人がアクセスできるジャーナルが存在するという話も聞いた。
例えば、”frontiers”や “PLOS ONE”などは、オープンアクセス型の科学ジャーナルである。今後は、人間発達に関する実務家としてのみならず、研究者としての実績を残していきたいと思っているため、どのようなジャーナルに論文が掲載されるかというのは、非常に重要になる。
ジャーナルによっても格付けがあり、どのようなジャーナルに論文が掲載されるかによって、実績の重みが変わってくるのだ。だが、往々にして、そうした権威のあるジャーナルに投稿される論文は、ごく少数の専門家が目を通すだけである、という問題を抱えている。
米国の大学院を卒業してから、フローニンゲン大学にやってくるまでの三年間、私は科学論文に自由にアクセスできないような不遇な時代を過ごしていた。そのため、ごく限られた専門家がアクセスするのではなく、多くの在野の研究者や実務家がアクセスできる、そのようなオープンアクセス型のジャーナルは非常に貴重な存在だと思っている。
クネン先生からも、今私が着手している研究内容は、他の分野の研究者が参考になる視点や研究手法が盛り込まれており、何よりも教育や人間発達に携わる実務家にも有益であろうから、それらのジャーナルに応募することも考慮してみると良い、と助言を得た。
科学者としての実績を積み重ねていくためには、どのようなジャーナルにどれほどの論文が採択されたかが重要になるのは確かである。実際に、それが数値として換算されることも知っている。
それは企業社会における、企業価値の算定と同じように、科学者の価値というのも、そうした数値で測られるような時代にあるのだ。だが、私はそうした数値に振り回されていてはいけないと常に自分に言い聞かせている。
数値が持つ客観性によって、科学者としての自分の価値が何らかの数値として算出されるのは大いに結構であり、そして、それは逆らうことのできない流れである。ただし、そうした数値が自分の研究態度や研究の質を左右するようであっては断じてならないと思うのだ。
それらの数値は、外発的な動機を科学者にもたらす。私はなんとしてでも、外発的な動機に左右されるのではなく、あくまでも内発的な動機に基づいて今後の研究に取り組んでいきたいと思うのだ。
これは今後の研究者生活の中で、忘れてはならない信念の一つだろう。私は、人間の発達に関する研究と実務を死ぬまで行うのだ。
そうであれば、そのような外発的な動機によって動かされることがどれほど愚かなことかわかる。確かに、私が科学者としてのキャリアを歩もうと思ったのは、30歳になる前のことであったから、一般的に言えば遅いのかもしれない。
しかし、それでも焦ってはならない。20年間ほどの文学的沈黙期の中で、絶えず内面と執筆技術を深めていたフランスの作家ポール・ヴァレリーの存在を思い出さなければならない。
また、ノルウェーの移民として差別を受け、六年間もの期間にわたって学術世界から締め出された、アメリカの経済学者ソースティン・ヴェブレンの存在を思い出さなければならない。
現代は、彼らが生きていた時代とは良い意味でも悪い意味でも、随分と異なるのは承知である。企業社会において、売上高や当期純利益という数字を高めていくことを奨励する見えない働きかけがあるのと同様に、学術世界においても、数値で換算される研究者としての価値を高めていくことを促す見えない外圧があるのを知っている。
仮に時代錯誤と思われようが、そうした外圧に飲まれてはいけないのだ。外側の基準、外発的な動機が私の中に入り込めないぐらいに、自分の内側を自分自身の基準と内発的な動機で埋め尽くしたい。
そのような状態を死ぬまで継続させることができたら、どれほど幸福な研究者人生だったと思うだろうか。2017/2/27