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764. 日記という形式について得られたこと


今日の午前中は、発達のプロセスを研究する意味と方法に関する論文を数本ほど読みたい。 その後、現在の私の研究で活用する予定の「状態空間分析」に関する専門書 “State space grids: Depicting dynamics across development(2013)”を読み進めていきたい。 それにしても、昨日は、改めて森有正先生から大きな励ましを得たように思う。いったい私は、森先生から何回励ましを受ければいいのかわからないほどであるが、それが他者を通じて生きていくということの意味だろう。

私が生まれる前にお亡くなりになられた森先生から、現在の私が大きな励ましを得るということ自体、不思議なことであり、とても尊いことであるように思う。 改めて励ましを得たことは、論文という体裁ではなく、日記という体裁から思想体系を構築していくことの可能性についてであった。昨日は、森先生の書籍をいくつか横断的に目を通していたのだが、『デカルトとパスカル』という書籍と『城門のかたわらにて』という書籍では、全く文体が異なることに気づいた。

前者が学術論文のような文体で展開されているのに対し、後者は日記のような文体で展開されている。前者の書籍は、森先生がフランスに渡られる前の作品であり、後者は渡仏後の作品である。

『城門のかたわらにて』のみならず、先生がパリに渡れてからの作品は、ほとんどが日記の形式であると言っても良いかもしれない。日記の体裁をとりながらも、これほどまでに深い探究活動ができるのだということに驚かされるのである。

いや、逆に日記の体裁をとるからこそ、深い内面探究が可能になるのかもしれないと思わされたのである。 以前、ドイツの文学作家であるミヒャエル・エンデの父、エドガー・エンデが残した言葉について言及していたように思う。エドガー・エンデは、概念というものをイメージが殺されたものだという主張をしていた。

これに対して、私は賛成票と反対票の双方を入れていたように思う。その時は、特に反対票に関する考えを書き残していたと思われる。

賛成票に関して言えば、森先生の『デカルトとパスカル』という書籍は、間違いなく深く鋭い探究がそこでなされているように思う。だが、そこでの文章は、とても概念的な匂いが漂っているのである。

それは不快な匂いではなく、ある種の香気なのだが、展開されている内容をこちらの全身に引きつけて咀嚼することが非常に難しい。つまり、この書籍で読者に要求されているのは、概念によって殺されたイメージや感覚を、こちら側からの積極的な働きかけによって再び生命を吹き込むような作業なのだ。正直なところ、この作業は至難の技である。 それに対して、森先生が日記という文体で執筆された一連の作品は、イメージや感覚を含めて、先生の実存性がその中に色濃く生きている。まさに、そうした生きた実存性を保ち得る可能性が日記という形式にあるような気がしているし、そうした生命を感じさせる何かが、昨日の私を確かに動かしたのだと思う。

日記という形式については、今後また何かを書き留めておく必要があるだろう。それぐらいに私は、日記が持つ不思議な力に恩恵を受けているのだ。2017/2/21

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