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762. 森・井筒・辻先生から:変容の特質


今日は、普段と若干異なるような日だったように思う。早朝の五時半に起床して以降、いつもと変わらないような仕事をしていたのは確かである。

それは学術論文を読むことであったり、何かしらの文章を書くというものである。ただし、午前中のある時を境目に、無性に日本語を読みたくなったのである。

私にとって、このような思いに駆り立てられることも実はそれほど珍しいことではない。以前どこかで書き留めたように、英語やオランダ語だけではなく、自分の日本語を磨き続ける必要性を痛感しているため、定期的に、持参した和書を読むということがある。

実際には、日本語を磨くためというような目的ではなく、日本語を司る精神を肥やすために、森有正先生、井筒俊彦先生、辻邦生先生の文章を読むことがあるのだ。ただし、いつもは大抵、この三名のうちの一人に絞って、その人の文章を読むのだが、今日は三名全ての著作に目を通していた。

日本語で書かれた三名の文書を読みながら、そこで扱われる内容自体は異なっていたしても、記述されている事柄が、同様の密度を持ったものとして、自分の内側に流れ込んでくるのを感じた。おそらく、彼ら三人が取り扱っている究極的なテーマというのは、多分に重なるものがあるのだろう。

三名が取り扱うテーマに対して、随分と共鳴するものが私の中にある。共鳴というよりも、強く打たれるような感覚とでも言えるだろうか。

彼らの書物を読み返すと、以前読んだ箇所には下線が引かれ、私の雑感が記されていることもある。そうした箇所を改めて読んでみても、以前には見過ごしていた意味が自分の内側で立ち上がってくるのだ。

また、これまで読んだことのない箇所には、当然ながら新鮮な驚きもありながら、どこか懐かしさに似たような感覚を得たのも不思議である。この懐かしさの根源は何なのだろうか。

これは自分が以前どこかで、おぼろげながら考えていたことを想起するようなものよりも、さらに深いところから生まれた懐かしさのように思える。もっとずっと深くにある根源的な懐かしさなのだ。

それは、どのような人間にも共通して持つ、経験が生まれる場所から湧き上がるような類いのものである。そのようなことを思いながら、本日もハッとさせられたのは、森有正先生が人間発達の本質を、これ以上ないほどに捉えた言葉を残していたことだった。

その言葉をあえてここで記す必要はない。表面的な知識としてそれと触れたところで、全く意味が無いからである。 これまでの私は、日々の生活の中で自分の内側をかすめていくものを、貴重な価値ある存在としてみなし、それを何とか形として内側に刻み込んで行こうとしていた。これ自体は、一つの体験的な事柄が真に一つの経験となるための不可欠な実践であるように思う。

だが、真の経験とは、そもそも自己展開を次々と行っていくものであり、自分自身を真に深めていくことに寄与するものなのだ。逆に言えば、自己の成熟が起こった後に、自分の内側の体験が経験になるというような特徴を、真の経験は持っているように思う。

そのため、移りゆく体験をいくら経験に昇華させようと思ったとしても、それが真の経験になるとは限らないのである。体験が経験に変容するためには、そもそも自己の変容が必要なのだ。

そして、自己の変容には長大な時間がかかるため、ある体験が一つの経験になるかどうかなど、この瞬間にはわかりようがないものなのだ。体験が経験になるということも、自己が発達するということも、どちらもともに、それが真に起こったかどうかは、それが起こった後に初めてわかる類いのものなのだ。

ゆえに、経験を獲得しようとすることや発達を獲得しようとすることは、相当に滑稽な願いのように思える。2017/2/20

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