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759. 苦難と蜘蛛の糸


ロシアの作曲家ボルトキエヴィッチの『苦難を通って栄光へ』という曲を、早朝の仕事の開始とともにひたすら繰り返し聴いている。この曲は、昨日、上の階に住むピアニストの方に音楽院で演奏してもらったものだ。

この曲にはどこか私を惹きつけるものがある。それが何かを掴むためにも、そして、この曲の真髄が掴めるまで、私はこの曲を何度も繰り返し聴くことになるだろう。

ボルトキエヴィッチがこの曲のタイトルにつけた「苦難」という言葉は、私を離さないものがあった。苦難という言葉について、昨夜の就寝中に少しばかり考えさせられていた。

そこから、私はまた少しばかり自分の生き方を再考していたのである。再考過程で取り留めもない考えがよぎっていたのは、「心が折れる」という言葉についてであった。

心が折れないように生きるというのは、どこかおかしくはないだろうか。そのような生き方を良しとしてはいけないのである。

少なくとも、私には、心が折れないように生きることなどできないし、そのように生きたいと思えないのだ。徹底的に心が折れることが重要であり、そこから立ち上がって再び歩き始めることが何よりも大切なのではないだろうか。

同様に、つまづかないように生きるのではないのだ。つまづかないようにではなく、徹底的につまづくのだ、それも完膚なきまでに。

そうでなければ、私たちは小さな自己を乗り越えていくことなど、到底不可能なのだ。エゴとの癒着を断ち切る道は、そこにあるような気がしてならない。

そしておそらく、それ以外に道はないのではないかとすら思う。苦難というのは乗り越えることが難しいのではなく、真にそれを経験することが難しいのではないだろうか。

苦難に関する世間の発想に違和感を覚えるのは、そのような考え方を自分が持っているからなのかもしれない。与えられた苦難を、自己に付着した諸々のものが焼き尽くされるまで経験し、そこから再び歩き始めたいのである。

それ以外の歩みの先に、永遠性や普遍性など待っていないように思えて仕方ないのだ。

『苦難を通って栄光へ』という曲には、苦難を今この瞬間に歩んでいる時への励ましの情感をもたらすだけではなく、過去の苦難とそこからの再出発を思い返すことを促すような働きかけがあるように思えて仕方ない。

これはそれほど遠い昔のことではなく、ある時私は、社会的に構築された過去の自分の言葉を全て解体することを迫られていた。その時までの私の言葉は、自分の言葉という装いを持ちながらも、結局のところは、自分の内側から発せられる真の自分の言葉ではなかったのである。

その時の私は、自分の言葉を見つけること無くして、どうやって自分の人生を生きたらいいのか全くわからなかった。自分自身で自分の言葉を絶えず疑い、それを打ち壊していくというのはたやすいことではなかった。

だが、それでもそれをしなければ、私は生きていけないぐらいに自分の言葉を探す必要に迫られていた。自分の言葉だと思っていたものに、自分のものではない思考や感情がおびただしく付着している姿を見て、私は唖然としたことを今でも鮮明に覚えている。

無数の屍のような言葉に埋もれながら、その場所でもがき続けていた。その体験は私にとって、小さいながらも、自己に付着したものが焼き尽くされる始まりを示すものだった。

その始まりなくして、蜘蛛の糸が垂れてくるようなことをこの眼で目撃することはできなかったと思うのだ。2017/2/19

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