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751. 本当の美・本当の真実


目覚める直前の夢の中で、とても重要な洞察を得た。どうやら私たちは、部分と全体が織りなす一つの総体であり、部分と全体は絶えず変化しているということを示唆するような内容だった。

部分と全体の絶え間ない変化をすぐさま「進化」と呼ぶことはためらわれるが、夢の中で得られた洞察は、部分と全体は繰り返される変化を通して、必ず新たな要素を付け加えているということであった。

今非常に残念に思うのは、この文章を書き留めているのは起床からしばらく経ってからのことであり、夢の中で得られた真の洞察をうまく表現できないことである。夢の中で掴まえたことを言葉にすれば、上記のような内容になると思うのだが、夢の中で体感として得られたことを全く伝えきれていないように思う。

夢を見ている状態の身体は、もっと重要な洞察を得ていたように思えてならない。なんとかその感覚を思い出そうとすると、それは昨日から今日にかけて、私の中で確かな変化が起きているという実感に近いようなものであったように思う。

言い換えると、それは、自分の中で部分が新たな全体を構成したことを実感させるものだった。その実感を得たとき、それは夢からの激励だと思った。

こうした激励を受けて、部分が新たな全体となり、その全体が新たな部分になるというプロセスが疑いようもなく自分の中で生じているということに言葉を失ったのである。部分と全体が無限の階層構造を成しているというのは、発達理論の根幹にある考えなのだが、そうした考えが自分の内側で真に体験される時、それは驚き以外の何物でもなかった。

ある種の畏怖心を抱いたがゆえに、私は言葉を失ったのだと思う。部分と全体が絶え間ない生成の流れを生み出しているというのは、非常に不思議なことではないだろうか。

いや、部分と全体が生成の流れを生み出しているというよりも、生成の流れというものが先に存在しており、それは部分と全体が絶え間ない変化をするための土壌の役割を果たしているのかもしれない。目覚める直前の夢は、私にこのようなことに気づかせてくれた。

今この瞬間の私は、掴んだものを若干取りこぼしてしまったかのような思いを持っているが、また別の話題について考えを巡らせていた。

昨日の「創造性と組織のイノベーション」のクラスの中で、芸術家と科学者の違いについて話題になった。より具体的には、ある実証結果が、創造的な芸術家と科学者の間に存在する性格上の違いを示しており、その違いについて少しばかりディスカッションをしていたのだ。

実証結果が示すその違いは、それ自体としては、私にとってほとんど重要性を持たない知識である。そうした発見事項から自分なりの考えを展開することが何よりも大事だと私は考えている。

そのディスカッションでは、創造的な芸術家と科学者の性格上の違いについて意見を述べ合っていたのであるが、私は教室のスクリーンに映し出されたデータを見ながら、性格という観点ではなく、真の芸術家は、作品の創出過程において自我が溶解し、そこから美の境地に至るということを考えていた。

つまり、真の芸術家は、自我の溶解を経て、その人固有の美の境地に至るのである。まさに、美というものが個人の内面領域を司るものであるがゆえに、真の芸術家は自我の溶解過程を経て、各人固有の美を見いだすのだと思ったのだ。

さらに、自我の溶解という純化によって見出された美というのは、普遍性を持っているのだ。自我が溶解するとき、普遍性が顔を覗かせる。その顔を、真の芸術家は掴まえることができるのだろう。

一方、創造的な科学者も同様に、探究過程において自我が溶解するようなことを体験しているのではないかとふと思った。それはフローや対象との没入状態と形容していいかもしれない。

ただし、芸術家と異なるのは、基本的に科学者は、美ではなく真の領域を探究しているということである。両者の探究領域は確かに異なるのだが、ここに不思議な共通点を見出すことができる。

それは、真の科学者が見出す発見事項というのは、極めて純化された真実であるがゆえに、普遍性を宿すということである。探究領域は異なれど、芸術家も科学者も普遍性へ向けて歩んでいるという点においては同じなのだ。

そして、普遍性へ向けて歩み、普遍性へ至るというのは、永続性の獲得だと言えるかもしれない。本当の美や本当の真実が、永遠を私たちに見せてくれるのはそのためだろう。2017/2/17

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