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749. 世阿弥からの学び:真の権威と脱神秘化の道


科学的な探究は、私にとって自制的な役割を果たし、自分の内側に独自の体系を構築することに寄与していることにふと気づいた。とかく形而上学的な世界に関心を寄せ、形而上学的な思想を好んで探究する傾向が私の中には確かにある。

それはそれとして問題はないのだが、問題があるとすれば、そうした世界や思想に耽溺しかねない危険性を密かに持っていることだろう。実際に、米国の大学院に留学をした際には、形而上学的な世界や思想に偏って探究を進める傾向が色濃く出ていたように思う。

こうした探究を進めた結果わかったのは、そうした世界や思想に触れているだけでは、結局のところ自分の内側に知識や経験の体系を構築していくことが難しいということであった。つまり、以前の私の探究姿勢には、知識や経験を体系立てる手段が欠落しており、さらには自分の知識や経験を体系化し、一つの思想のようなものを形作っていこうとする意志がほとんどなかったのだ。

人間の発達に関する思想を学ぶだけではなく、発達現象を科学的に探究する諸々の手法を学ぶうちに、少しずつ自分の探究姿勢や発想そのものが変化しているように思える。ダイナミックシステムアプローチや非線形ダイナミクスのような応用数学を学ぶことは、形而上学的な世界や思想に傾注しすぎる傾向のある私をうまく制御してくれているように思う。

いや、より正確には、科学的な探究は自分を制御しているのではなく、自分の内側に知識や経験の総体を形作る意識と方法を与えてくれているのだと思うのだ。未だ解明されない諸々の発達現象に対して科学的なアプローチを採用することのみならず、私は自分自身の経験にもそうしたアプローチを知らず知らずのうちに採用しているのだと思う。

一人の人間として、独自の体験というものが誰にでもある。むしろ、一人の人間の体験は常に独自のものだと言ってもいいかもしれない。

それゆえに、他者が構築した思想体系から出発するのではなく、自分独自の体験から出発することは望ましいように思える。だが、自分の体験に拘泥していては、体験そのものを崇めることにつながり、それが神秘化されてしまう。

また、自分の体験に拘泥していては、自分の体験が一つの体系に昇華されることはほとんどないだろう。客観性を謳う科学は、実際のところ、その客観性を疑いたくなるようなこともあるが、主観的な体験に囚われず、そこから一歩離れる形で、体験を法則化していくような姿勢を持っているのは確かだ。

つまり、科学的なアプローチは、主観的な体験に溺れることや、それを神秘化するようなことを一切許さないという姿勢を私に植え付けてくれているように思えるのだ。昨日、森有正先生の書籍に目を通して気づいたのは、こうした姿勢を持っていた代表的な人物は世阿弥であるということだった。

世阿弥は、能という伝統芸能を確立したことで有名であるが、彼は自分の能の体験を神秘化させることなく、自己批判という客観性を自分に絶えず突きつけることによって、能の体系を自分の中に築いていった人物のように映る。

能を含め、とかく伝統芸能は言語の介入度合いが大きくないため、体験そのものが神秘化されやすいという傾向が強い。そうした中にあって、世阿弥は体験の神秘化を認めず、ある種の科学的な姿勢を持ちながら能に精進していたのだと思う。

その結果、能に関する巨大な体系を自分の内側に構築し、能という伝統芸能を創出したのだと思う。世阿弥の仕事と業績を見ていると、彼のような人物を本当の権威というのだろう。

本当の権威は、自分の体験に溺れることなく、厳しい自己批判を通じた、体験の脱神秘化を極限まで進め、それでもどうしても残ってしまう神秘性を内包した人物のことを言うのではないかと最近思う。

そのように考えると、世間一般で崇められている権威的な人物の中に、そうした姿勢と脱神秘化後に残る本当の神秘性を兼ね備えた人がどれほどいるだろうか。私たちの社会の中に、権威を盲目的に崇めるという姿勢と権威を打ち倒すことを盲目的に良しとする姿勢が見られるように思う。

これらはどちらも極端なものであり、それは問題を含んでいるように思える。自分の体験に拘泥し、脱神秘化に至らない人物は、崇められるに値せず、それは打ち倒されるべき存在だろう。

一方、自分の体験を極限まで脱神秘化をし、それでも残る神秘性を兼ね備えた自分は、決して打ち倒されるべき存在ではなく、そうした人物は真に崇められるに値すると思うのだ。私たちはどうも二つの極端な姿勢を通じて権威と接する傾向にあり、そもそも真の権威を見抜くような眼を持っていないと言えるかもしれない。

そうした眼を獲得していくためには、自分自身が自らの体験を絶えず批判的に検証し、体験を浄化させる絶え間ない試みを通じて、自分独自の法則性を発見する道を歩き続けることにあるように思うのだ。2017/2/16

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