
数日前から学術論文の執筆に関する基本的な事柄を学習し直している。現代社会では、オンラインを活用すれば、世界の大学の講義を自由に視聴することができるという恩恵を受けながら、学術論文の執筆に関する講義を、ここのところ毎晩視聴している。
この講義を通じて、改めて英語という言語が持つ文化的な色合いに気づくことができ、日本語を書く能力と同様に、英語を書くという能力を常に鍛錬していく必要があるということを改めて自覚させてくれた。
この講義の担当教員はロシア人であり、英語がネイティブではないのだが、逆にネイティブには気づかない英語の機微を把握している印象を私に与え、実際にこれまでの講義は非常に得るものが多い。
今この講義を受講しているのは、再度学術論文の作法を確認するためであり、自分が忘れているような観点を見直し、知らない観点を獲得するためである。つまり、それらは学術論文を書くという技術的な側面を強化することを目的にしたものなのだ。
もちろん、こうした技術的な側面を強化していくことは大事だという認識がある。だが、そうした表面的な技術を超えて、さらに深い技術というものを血肉化させていくことが何よりも大切だという思いがある。
こうした思いを感じさせたのは、そもそも、自分の文章に明瞭性が欠けているのは一体なぜなのか、という自己批判であった。自分の文章の中に、どうも歯切れの悪い汚濁が常に混在しているのはどうしてなのかを考えていたのである。
日本語においてすらも、そもそも文章を書く作法をきちんと学んでこなかったがゆえに、自分なりに文章の書き方をいつも手探りで学ぼうとしている。英語に関しては、米国の大学院で初めて文章の書き方を学び、それ以来、少しずつ自分の文章力を高めようと思っているのだが、常に自分の未熟さを感じざるをえない。
日本語にせよ、英語にせよ、澄み渡っていながらも、それは単なる無色透明ではなく、その人の実存性や固有性が滲み出す有色な透明感を持った文章を書くにはどうしたら良いのだろうか、ということが今の私にとっての切実な課題である。
そうした課題を乗り越える一つの方法として、私は愚直に先人の文章から学ぶ必要があるだろう。そして、実際に文章を書くという修練を毎日課していくことが何にもまして大事なのだろう。表面的な明瞭性ではなく、深層的な明瞭性をどうしても獲得したいのだ。 そのような課題意識を持っている時に、私は、フランスの詩人ポール・ヴァレリーの言葉に励ましを得た。それは、「科学と文学的創作との間の距離は非常にわずかであり、ほとんど同じ精神作用がそこに働いている」という類の言葉だった。
私は、「真」を探究する学術論文の中に、「美」や「善」を探究する文学作品のような性質をもたせたいと常々思っていたのだが、それは領域戦犯の行為に近く、非常に馬鹿げた考えのように思ってしまう自分がいたのも確かである。
だが、ヴァレリーの言葉を受けて、両者を架橋するような道を見いだしうることに改めて気づいたのである。真善美を架橋するような論文を書くことができれば、それはどれほど喜ばしいことだろうか。
まさに、そうした論文は、真善美を分断することなく、三つの領域を結び合わせる統合的作用を持っているように思うのだ。文章を書くという技術を地道に練磨しながら、いつかそのような論文を執筆できることを願いながら、今日も自分の仕事に取り掛かりたい。2017/2/14