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736. 強烈な幸福感と評論について


昨夜就寝に際して、あまりに強烈な幸福感を自分が感じていることに気づいた。これは昨夜の就寝前のみならず、ここ最近の私は、日常生活の瞬刻瞬刻の全てが幸福感に包まれたものだと実感するようになっている。

ただし、とりわけ昨夜の幸福感は強烈な印象を私に与えたのだ。それは、言葉を絶するような幸福感であり、言葉を超越した幸福さこそが真の幸福感なのかもしれない、と改めて思わせるようなものだった。

そうした言葉を失うような幸福感に包まれていたのは確かなことだとしても、そこからさらに考えさせられることがあった。それは何かというと、昨日考えていた評論の特質である。

冒頭で私は、自分が体験した感情について述べたが、それは単なる主観的な体験の報告でしかない。例えば、芸術評論を例にとると、作品から湧き上がってきた主観的な感情を紹介することや、主観的な感想を述べることは評論に値しないのだと思う。

確かに、評論の出発点は、作品によって喚起された主観的な感情であり、それを表現せざるをえないほどの切迫感のようなものが必要になるのだと思う。だが、それはあくまで出発点であって、終着点では決してない。

主観的な感情に対して、客観性を与えるような試みをしなければ、評論を読む読者にとって何の意味も持たないものになってしまうだろう。まさに主観的な体験に客観性を与えることによって、それが他者にとって理解可能なものになり、読者自身の考えや感覚を促すようなものになっていくのだと思うのだ。

これは主観的な体験の普遍化であると言い換えていいだろうし、こうした普遍化の手順を取ることが、評論にとって何より重要なのだとふと思ったのだ。日々の日記の中で、私は極めて主観的な体験を裸体のまま記述していることに気づく。

もちろん、日記というのは本来的にそうした性質を持つものだと思う。だが、主観的な体験をせめて経験にまで昇華させた形で表現していきたいと思ったのも事実である。

仮に経験にまで昇華させることができなかったとしても、私的な感覚や感想を単に記述するのではなく、それを普遍化させていく姿勢を持ちたいと思う。言葉というものが本質的に他者との共通理解を育むためのものであるならば、私的な体験を言葉を通じて普遍化させた形で伝えていくことがなおさら重要になるだろう。

また、内側の感覚が深化していくことにおいて、言葉の深化が不可欠なものであるならば、主観的な感覚を深めていくためには、言葉を通じた普遍化を実践する必要があるように思うのだ。

昨夜自分を襲った極めて強烈な幸福感を契機として、そのようなことを考えさせられた。2017/2/11

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