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735. 死物化した概念と生命力を保持した概念


早朝起床してみると、昨日に考えていたことが、まだ自分の中に留まり続けていることがわかった。それは自分の中に留まりながら、少しずつ前進しているかのようだった。

実際に今朝起きてみた際に、昨日考えていたことに対して、また少し違った観点と考えの深まりを発見したのである。昨夜考えていたのは、音楽から享受したものを学術論文という言葉の世界の中に表出させることであった。

昨日指摘したように、これは非常に難しい試みだと改めて思う。なぜなら、音楽というものは、生き生きとした感情や感覚が内包されたものに他ならず、それらを殺さずに言葉の世界に移すことが難しいからである。

ドイツの文学作家であるミヒャエル・エンデの父、エドガー・エンデはかつて、言葉によって概念化されたものは、言葉にされたものを殺してしまう、というような趣旨の指摘をしていた。

特に、概念というものをイメージが殺されたものだという主張をしたエドガー・エンデは、画家らしいと言えば画家らしい。私は、エドガー・エンデの考えに賛成な部分もありながら、反対な部分がある。

賛成な部分は、確かに言葉によって生み出された概念は、言葉にされたものを殺してしまう可能性が高い。実際に、私が論文や書籍を読んでいて全く味気なく思うことが多々あるのは、そこで表現されている言葉が死んでいるからだ。

より正確には、そうした味気ない文章の中で表現されている言葉には、概念化される前のイメージが殺され、概念化される前の生々しい感情や感覚が殺されてしまっているのだ。そうした点において、エドガー・エンデの考えに賛成である。

しかしながら、私は、概念化される前のイメージを保ち続け、概念化される前の生きた感情や感覚を内包させている文章に出会うことがある事実を見過ごすわけにはいかない。往々にして、私が感銘を受ける論文や書籍には、この特徴があるのだ。

それが論文の体裁を取ろうと、小説の体裁を取ろうと、人を感動させる文章というのは、文字どおり感情を動かす力が内包されており、そうした文章の言葉には生きた感情が梱包されているのだ。いや、もしかすると、梱包というよりも、読み手が文章に触れた時に、必然的に感情が溢れ出てくるような力を秘めた言葉がそこに存在しているのだと思う。

仮に概念化された言葉が、概念化される前のイメージや感覚を殺すものであるならば、私たちが言葉から鮮明なイメージや生き生きとした感覚を汲み取ることのできる理由をうまく説明することができないだろう。

そのようなことを考えてみると、死物化された概念と同時に、生命力を持った概念というものも存在していると思えて仕方ないのだ。このような理由から、私はエドガー・エンデの主張に対して、部分的に賛同しながらも、部分的に反対していたのだ。

ここから私は、音楽がもたらしてくれるあの生き生きとした感覚を、言葉の世界に生きた形で移行させることは不可能ではないと考えている。音楽が与えてくれる、言葉が生まれる前のあのイメージやあの感覚を殺すことなく、言葉を与えていきたいと強く思う。

言葉が生まれる前のイメージや感覚は、実に多種多様な特性を持っているが、その多様性を損なわずに一つの言葉に置き換えていくのである。

言葉が生まれる前の始原的な性質を損なうことなく言葉を与え、その言葉に触れた時、言葉が生まれる始原的な世界に帰ることができるようにしたいのだ。そのような試みを、できる限り毎日の文章執筆の中で実行したいと強く思う。2017/2/11

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