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733. 評論から考えさせられること


今日も早朝から仕事が非常にはかどった。芸術鑑賞において、作品の背景にある知識を獲得することが、鑑賞経験をより豊かにするという思いから、現在カーティス音楽院のオンラインコースを受講している。

これは以前紹介したように、ベートーヴェンのピアノソナタに関する理解を深めていくことを目的にしたものである。そのコースの中で、モーツァルトはハイドンから多大な影響を受け、ベートーヴェンはモーツァルトとハイドンの双方から多大な影響を受けていたということを改めて確認し、これまであまり聴いたことのなかったハイドンのピアノ曲を聴いてみようという思いに至った。

昨夜、ハイドンのピアノソナタが合計で5時間分集められた動画を見つけ、それをMP3に変換した。今朝は仕事と共に、ハイドンの曲をずっと聴いていた。

これからハイドンの曲をより真剣に聴いていくつもりであり、ハイドンに関する知識を少しずつ習得していこうと思っているため、今のところハイドンのピアノ曲について何も語ることができない。

他の作曲家のピアノ曲と比較するためにも、そしてハイドンの曲を深く理解するためにも、彼の曲と真剣に向き合う時間を持ち、一つ一つの楽曲の意味を紐解いていくような試みを継続させていくことが重要になるだろう。

こうした積極的な関与がなければ、芸術作品から私たちが意味を汲み取ることは難しいため、つくづく芸術鑑賞というのは奥が深いものだと思わされる。

先日偶然ながら、音楽評論家の吉田秀和氏の仕事を知る機会があった。吉田氏の仕事について調べてみると、彼の音楽評論は独特であり、特に文体の美しさを指摘するような評価を多数目にした。

また、他者の意見に惑わされることなく、常に自分の感覚から出発し、自分の考えを明確に表現する評論形式を持っていたということを聞いて、なおさら吉田氏の文章を読んでみたくなった。残念ながら、現在の私の生活拠点の都合上、今すぐに吉田氏の文章に目を通すことができないが、日本に一時帰国した際には、吉田氏が執筆した書籍のどれかを読んでみたいと思う。

吉田氏に関する情報を得たことによって、評論という表現形式そのものについて少しばかり考えさせられている。評論の役割や表現方法について私は無知であるため、そもそも評論とは何なのかを出発点として、このテーマについても自分なりに考えを深めていきたいと思う。

吉田氏の仕事について調べていく中で、今少なくとも言えることは、評論というのは私的な感想を述べることでもなく、他者や社会的なものに迎合するようなものでもないということである。

評論の非常に重要な要素として、自分の内側の感覚という主体的なものから出発していながらも、それを表現する態度は常に客観的でなければならないということが挙げられそうだ。その人固有の感覚と意見や観点がないものは、いくら客観的な記述がそこでなされていても、とてもつまらない評論になってしまうと思う。

そして、そうしたものはおそらく評論と呼ぶにふさわしくないのだろう。学術論文を執筆することと評論を執筆することはまた異なる表現活動だが、主観的なものを出発点にして、それに客観性を与えていく形で表現を行わなければ、非常につまらないものになってしまうという点において、両者は多分に共通しているように思える。

今の私に求められるのは、主観的な感覚や感性を研究の中核に据えて、それを科学論文にふさわしい形で表現するための方法を自分なりに見つけていくことである。そうした意味からも、評論というジャンルから得ることが多いように思えてきたのだ。

そのようなことを思いながら、昨夜の夢をふと思い出した。昨夜の夢の中で、すでにこの世を去られている森有正先生が私の眼の前に現れた。

そして、森先生が私の日記を読み、幾つかの感想を述べてくださった。具体的にどのような感想を述べられたのかは明瞭ではないが、とにかく気恥ずかしい気持ちになったことは確かである。

この気恥ずかしさは、やはり言葉を通じた自分の表現力の未熟さを常々自覚しているからだと思う。言葉を通じた表現活動について、それが日記という形式を取るにせよ、書籍という形式を取るにせよ、学術論文という形式を取るにせよ、言葉を通じた自らの表現力により一層の磨きをかける鍛錬を継続させていきたいと思わされた。2017/2/10

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