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725. 科学論文の創出方法について


フローニンゲンの街も二月に入ってからしばらく経った。先週は比較的暖かい日が続いていたが、今週は再び最高気温がマイナスとなる日々が続いている。

今日は、最高気温がマイナス1度なのだが、体感はマイナス10度ぐらいに感じられるという予報が出ている。十倍に寒さが強化されているのはなぜなのか気になるところだが、粉雪が散らつく様子を書斎の窓から見る限り、確かに外は非常に寒そうだ。だが、それでも今日は昼食前にランニングに出かけようと思う。

早朝から諸々の学術論文に目を通していると、ふと、自分の関心事項が泉のように次から次へと湧き上がってくることに気づく。文献に目を通すときの私の思考は、良かれ悪しかれ拡散しており、先ほどの関心事項は「創造性」「組織のイノベーション」「重層(重ね合わせ:superposition)」などであった。

それらの関心は、分離した形で自分の中で湧き上がってくるのだが、それらの一見関係のないように思える概念群は、何らかの一つの形を作ろうとするような意図(もしくは「動き」)を持っているように思える。

「発達」という現象を中心軸に据えて探究活動を続けていると、知らず知らず、探究の幅が広がっており、様々な概念に自ずと触れることにならざるをえない。しかし、結局のところ、そうした概念を全て同時に深めていくことはできず、一つ一つじっくりと自分の内側の進行に合わせて深めていくしか方法はない。

より厳密には、ある概念について少し考えると、別の概念に関心が飛び火し、そこで少しばかり思考を巡らせると再び別の概念に関心が飛び移り、そこから気づかないうちに、また最初の関心事項に戻ってくるというようなサイクルが生じているのがわかる。そうしたサイクルを通して、自分の知識体系がより強固に、かつ高度なものになっていくのだと思う。

知識の体系化に関するテーマ以外に、もう一つ自分の中で大きなテーマが継続的に存在している。それは、学術論文を執筆する方法に関するものである。あるいは、作品としての学術論文を創出する法則性を掴み、その法則を絶えず再検討しながら実際の論文を執筆していく実践というものが、以前から長らく重要なテーマとして浮上している。

昨日も偶然ながら、「創造性と組織のイノベーション」というコースの参考資料の中に、担当講師のエリク・リーツシェル教授が執筆した「科学論文の執筆方法」という短めの文章があることを見つけた。

「何を書くか」というのは当然重要ながら、「なぜ自分は学術論文を書くのか」という論文の存在意義そのものを私は問い続けたいと思っており、同時に、論文の存在意義について自分なりの意味を見出すことが何にもまして重要であると考えている。

また、「どのように論文を書くか」というのは、論文という作品を仕立てあげる技術的なテーマに属するが、これも非常に奥の深いテーマだと思っている。同分野もしくは異分野の科学者に対して、自分のメッセージを明瞭に伝えるために、「どのように論文を書くか」という方法論的なテーマの探求は不可欠である。

私は時折、論文を読んでいると、そこに得も言わぬ恍惚感を覚える時や、思わず笑みを漏らさずにはいられない面白さや驚きを感じることがある。もちろん残念ながら、全ての論文がそのような感情を喚起してくれるわけでは決してないのだ。

私の中で、優れた学術論文は、単に新たな科学的発見事項を報告するような文章ではない。往々にして、そうした文章は非常につまらない。

確かに、科学は「真善美」の領域のうち、真の領域を司るものであり、発見された事項を忠実に伝えるために客観的な言語を用いざるえないのは納得できる。それどころか、学術論文を執筆する際に、客観的な言語を用いるというのは、見知らぬ人や目上の人に敬語を使うのと同様に、論文執筆の作法である。

ただし、問題なのは、論文の存在意義や論文の創出方法に関する探究を怠っている研究者の文章は、そうした作法の中に閉じ込められているがゆえに、彼らが執筆した論文は読者の内側を掻き立てるような作用がほどんとないことである。

学術論文は、その分野における新たな知見を紹介していくものであるため、必ず新たな何かを伝えていく必要があるのだが、皮肉にも、その何かを伝えるための技巧を磨かない限り、その文章の読者は「それで何?(so what?)」という興醒めた感覚しか持たないのではないかと思う。

つまり、私が是が非でも実現させていきたいのは、学術論文を感動や驚きをもたらす一つの装置にしたいということである。そのためには、感動や驚きという感情はそもそもどのような性質を持ったものであり、私たちはどのような時にそうした感情を抱くのかについて考えを深めていかなければならない。

また、何にも増して重要なのは、読者をひきつけるストーリーをいかに構築していくのかに関する方法論を、自分なりに探究していく必要があるだろう。もちろん、学術論文は小説のような物語ではないが、何かを順序立てて読者に伝えるという点においては、やはり物語の性質を強く持つのである。

イントロダクションはまさに物語の開始を表すものであり、コンクルージョンは物語の終焉を示すものである。論文の構成は、徹頭徹尾、読者をうまく導く水先案内人のような役割を果たさなければならず、読者が論文の内容に対して感動や驚きを持ってもらえるような流れを生み出す役割を果たすようにしなければならない。

神話学者のジョゼフ・キャンベルが世界の神話の創出の中に法則性を見出したように、そして、辻邦生先生が小説の創出の中に法則性を見出したように、私は学術論文の創出の中に法則性を見出したいと思う。

新たな科学的な発見事項を客観的な三人称言語で表現しながらも、読者に玉虫色の感情を喚起させるような方法論を自分なりに何としても構築したいと思う。これは今の私にとって、とても重要なテーマである。2017/2/8

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