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711. 眼と意識の発達からの無境界


ここ最近、新しく一つ、とても小さな楽しみができた。私は毎朝、起床直後にその日分のヨギティーを作っている。

そのヨギティーのティーバッグに付いているタグの言葉を、これまでは何気なく読んでいた。何かにはハッとさせられるような言葉もあれば、時にはあまり響かない言葉もある。

ここ最近の楽しみとは、ハッとさせられるような言葉が記されたタグを取り外し、それをノートに貼り付けながら収集するというものである。オランダに来てから、二つの製造元のヨギティーを購入しているが、片方はタグの言葉が英語で記載されており、もう片方はドイツ語——なぜだかオランダ語ではない——と英語で掲載されている。

今日は後者の方のお茶を選び、タグに記載されている言葉を見たとき、少しばかりハッとさせられるようなものがあった。私はドイツ語をほとんど解さないため、タグに記載されている英文にハッとさせられるものがあったのである。

そこに書かれていた英文を直訳すると、「私たちの眼を持ち上げると、そこには境界がない」という意味になるだろう。字面を追うだけでは、この言葉が真に意味することを掴むのは容易ではなかった。

ティーバッグの入った容器にお湯を注ぎながら、しばらくこの言葉の意味について考えていた。

自分の専門知識というのは、良かれ悪しかれ自分の認識世界を強固に形作ってしまうものであり、私は意識の発達理論の観点から、この英文の意味を無意識的に汲み取ろうとしていた。

すると、ここで表現されている眼というのは肉体の眼だけを指すのではなく、心の眼、魂の眼(観想の眼)を含めた、世界認識を規定する媒体物のことを指しているのでないかと思ったのだ。

そして、「眼を持ち上げる」というのは、物理的な目を上に向けることだけを指すのではなく、肉体の眼から心の眼へ、心の眼から魂の眼へ、という発達プロセスを表しているのではないか、と解釈したのだ。

このように解釈することによって、眼を持ち上げると、そこには無境界が広がっているという意味を掴まえることが幾分容易なのではないだろうか。世界認識を規定する私たちの眼が発達していくというのは、意識の発達に他ならず、意識の発達に伴い、私たちの小さな自己はより収縮を続ける。

その先に待っているのが、自己と他の境界が消え果てた無境界の領域なのだ。今日何気なく手に取ったティーバッグのタグの言葉から、そのようなことを考えさせられたのだ。

私はそのタグをノートに貼り付け、眼を見開きながら今日という一日を過ごそうと静かに誓った。2017/2/2

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