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696. 幸福さの中心から


抜歯から一日が過ぎ、今日から再び夕食が食べられるようになった。だが、抜歯した部分に触れないように、そっと優しく食べ物を噛む必要があった。

そうした必要性のおかげで、私はいつも以上に夕食を味わうことに集中できていたように思う。昨日の私は、普段通りの夕食など食べる気もせず、良く熟れたアボカドを一つだけ食べた。

今日の夕食は、ほぼ普段と同じものを食べることができた。ここで私は、食べ物を噛めるということの有り難さを改めて思い知ることになった。

そうなのだ。確かに、私は今日も食べることに関して、多大な不自由さを感じていた。しかし、その不自由さが逆に、食べるということ、特に、噛むという一つの動作の有り難さを浮き彫りにしたのである。

噛むことがままならなくなって初めて、噛むということが何だったのかを知る。そして、噛むということが何かを知って初めて、噛むことの有り難さを突きつけられたのである。

私たちは何かを失ってみて、初めてその有り難さに気づくと言われるが、まさにその通りである。しかしながら、私たちは、何かを失う前に、その有り難さに気づきながら毎日を過ごすことができたら、一体どれほど幸福であろうか。

夕食前、浴槽に浸かっている時に考えていたことも、この話題と大いに関係している。私たちは、多くの物を獲得し、それによって幸福を感じようとしているが、それは真の幸福へ辿り着くことを阻害しているように思えてならない。

私の心の奥底にも、未だ物質的なものへの執着があることは確かである。しかし、そうした執着から一刻も早く自分の自我を解放し、幸福を感じる真の道を歩まなければならない、と自分に言い聞かせていた。

こうした自分への言い聞かせは、折を見て自分の中で起こる現象である。それぐらいに私は、現世的なものに対して依然として囚われているし、同時に、そこからの脱却を絶えず志しているのだと思う。 そのようなことを思いながら、今日という一日が、起床から就寝に向かう全ての過程において幸福であったと実感した。このような幸福感を実感しながら毎日を生きることが、本当の意味で生きるということなのではないかと思う。 また、幸福というものはそもそも獲得しようと思って獲得されるようなものでは決してないように思う。そして、幸福というのはそれほど遠いところにあるのでもない。

いつも私たちの近くにあるものであり、それは見出されることを常に待っているかのようなものなのだ。2017/1/28

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