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686. 劣等感と小さな自己


いつも私の未成熟さを教えてくれるのは、自分の小さな自己の存在である。今日もそれを象徴するような出来事があった。

今日、大学のメインキャンパスで開催された、とあるワークショップに参加した時、自分の思考速度の鈍重さと知識の欠落ぶりに辟易させられた。より正直な気持ちを吐露するのであれば、自分の知性の無さに劣等感を覚えたのである。

私は時折、自分の知性に対してある種強烈な劣等感を覚えることがある。これは他者と比較して生み出されたものでは決してなく、自分の内側にある何らかの基準に照らし合わせて生み出される類の劣等感である。

以前より、私はどうして、自分の思考速度が鈍重であると思おうとしているのか、知識が欠乏していると思おうとしているのかについて気になっていた。確かに、客観的に見ても、それらは正しいのかもしれない。

だが、私はそうした外側からの客観的な評価ではなく、内側からの主観的な評価によって生み出される劣等感に着目をしていた。ここ最近、こうした劣等感を覚えるたびに、つくづく自分の内側の未成熟さを感じさせられている。

なぜなら、こうした劣等感を覚えさせるのは、他でもなく小さな自己が依然として自分の中で大きな位置を占めているからである。意識の発達に関する原理に従えば、私たちの発達は、小さな自己の縮小過程なのだ。

そのため、小さな自己が内側で大きな位置を占めているというのは、自己の発達が未熟であることの証拠に他ならず、逆に、小さな自己が内側で小さな一点しか占めていないのであれば、それは自己の発達が成熟していることの証拠に他ならない。

そのように考えてみた結果、私の自己は依然として未熟なのだと思う。それ以上に、自分の知性に劣等感を覚えるというのも、随分と次元の低い悩みであり、そうした問題について悩めるだけの自己の成熟さしかないことを物語っている。

それと同時に、こうした劣等感を覚えて安堵する自分がいるのも確かである。なぜなら、この種の劣等感は、私が自分の内側で知識と経験の体系を構築することに不可欠なものであり、そうした劣等感が自分を後押ししてくれているような気さえするからである。

さらには、こうした劣等感を覚える時、小さな自己がまだ自分の中に存在してくれているのだと実感するからである。この点についてはもう少し説明がいるだろう。

先ほど述べたように、基本的には、小さな自己の縮小過程が意識の成熟プロセスなのは確かである。そうであれば、本来は、小さな自己が縮小していくことを歓迎するべきだろう。

だが、私の中には、小さな自己の縮小を手放しに喜べない自分がいるのだ。なぜなら、時に小さな自己は、自分が一人の人間として確かに存在・実在していることを感じさせてくれる拠り所のようなものだからである。

仮に、私は小さな自己を極小の点にまで縮小させ、自分が大我と一体になった時、自分を人間だと見なせるのかどうか、あるいは、人間らしさを感じながら日々を生きることができるのかどうかについて、非常に疑問に思っているのだ。

これらのことからも、自分にとって、現在感じている劣等感はまだ必要なものであり、小さな自己の存在も、自分が人間としてこの世で生きていることを実感するために不可欠なのである。そのため、内面が成熟を極めるなどというのは、想像もつかないほど遥か先の現象だと言える。2017/1/25

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