
昨夜は、非常に滑稽な夢を見た。先日の日記に書き留めたように、私は今週の金曜日に親知らず(wisdom tooth)を抜くことになっている。
オランダ人の歯科医の知識や技術を知らないものだから、最初は歯医者に行くのがためらわれた。しかし、そうは言っていられないほど、食べ物を噛む際に奥歯が使えないぐらいの違和感を生じるようになっていたのだ。
先日、私は初めてオランダの歯医者に行き、担当医と話をしていた。会話の文脈から、「親知らず」が “wisdom tooth”という英単語であることをその時初めて知った。
上の親知らずを二本抜くことを勧められた時、世間一般に言われているように、親知らずを抜くことの痛みに対して懸念をしていた。当然、親知らずを抜く際は麻酔がかかっているので痛みはないということであるが、抜いた後の数日間の状態について懸念があったのだ。
実はそうした痛みに対する懸念よりも大きなものが、私の脳裏に潜んでいた。それは、wisdom toothを抜いてしまったら、自分の手から叡智がこぼれてしまうのではないか、というものであった。
あるいは、wisdom toothを抜くことによって、今後一生、叡智を獲得することができないのではないか、という底知れぬ恐れであった。理性を活用してみれば、これは非常に馬鹿げた恐れであり、神話的な発想に依拠したものであるが、そのような恐れを私が感じていたのは確かなのである。
親知らずを抜く日は明後日に迫っており、昨日突如として、その懸念が夢の中で形となって現れた。二本の親知らずを抜くことに関して、夢の中の自分も恐れを感じているようであった。
結局今朝は、その恐れによって起こされる形となったが、親知らずの抜き方に関心があったためだろうか、その夢の中で、親知らずを抜く方法をヴィジュアルで掴むことができた。現在の時刻は夕方であるが、そのヴィジュアルイメージが今でも脳裏に焼き付いている。
おそらく、その抜き方は正しいものではないと思うが、そのようなイメージが知覚されたということ、そして、そのイメージがまだ鮮明に残っていることが興味深かった。それにしても、今の私は、なぜそれほどまでに叡智を獲得することに執着しているのだろうか、と思わずにはいられない。2017/1/25