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678. 闇との闘いと新たな活動エネルギー


週末の土日は、いつもより少しばかり遅い起床時間になっていたが、今日からいつも通りの起床時間に戻った。早朝から爽快な気分に包まれ、早く書斎の机に向かいたいという焦る気持ちを抑えながら、朝の習慣的な実践を行っていた。

書斎の机に着くと、昨夜の就寝前に、「感情の強度」というテーマが突発的に自分に降りてきたことを思い出した。いかなる話題にせよ、そこに「多くの人」や「社会」という主語が自分の頭に思い浮かぶ時、それらは私の思考によって構築されたものに過ぎない。

そして、往々にして、「多くの人」や「社会」という言葉が出てくる時は、たいていそれらを否定するような話題について自分が考えていることに気づく。昨夜は、そこからさらに別のことに気づかされた。

具体的には、多くの人や社会に対して私が何か批判を加える時、それは結局、自分を否定し、自己を乗り越えようとしているのではないか、ということに気づかされたのだ。まさにそれは、個と集合の切っても切り離せない関係を象徴しており、個と集合の相互発達的な関係を示唆しているように思える。

昨夜も就寝前に、自分の思考によって作られた「多くの人」や「社会」を痛切に否定するような思念が頭の中を駆け巡っていたが、結局それは、自己の許しがたい部分を否定し、なんとか切り捨てることによって前に進もうとする意思の表れに他ならないように思えたのだ。

心の闇や影に関して学びを深めてきた者にとって、自己の許しがたい部分とはシャドーと密接に関わっていることに気づくかもしれない。そして、シャドーに関する原則的な教えは、シャドーを切り離すことをせず、自己に再所有(統合)するというものだろう。

思うに、それは心の発達や治癒に関する「原則的」な教えなのであって、全てのシャドーに当てはまるものではないのではないか、と考えるようになっている。つまり、シャドーを自己に受け入れるという友好的な関係を作ろうとすることだけではなく、時には徹底的に敵対的な関係を持ってして、それを撃ち破るような闘いに臨むことが重要だという気がしているのだ。

シャドーに闘いを挑むというのは幾分馬鹿げたことかもしれない。なぜなら、シャドーを撃ち破ることなど不可能であることが最初から分かっているからだ。

それでも、内側の成熟を先に進める際には、時にそうした無謀な闘いに果敢に挑むような気骨さと気概が不可欠だと思うのだ。そうした思いが、昨夜の就寝前に、私の頭の中をぐるぐると駆け巡っていた「徹底的に甘くぬるい」という批判的な言葉を生み出したように思える。

以前より、日々の私の活動に対して、思いの丈が低すぎるという批判や、熱情さの度合いが低すぎるという批判を自分に対して加えている自分がいることを知っていた。以前はこの批判に駆り立てられるように、日々の生活を形作っていたように思う。

年末の日本への一時帰国の際に、隅田川での邂逅を経て、こうした批判を加える者の正体を知って以降、批判によって盲目的に駆り立てられることはなくなったように思う。だが、そうした形で駆り立てられていた活動エネルギーとは、また別次元の別種の活動エネルギーが自分の内側からふつふつと沸き立ち始めていることに気づく。

これからしばらくの間は、おそらく、そうした新たな活動エネルギーをもとに、日々の仕事を進めていくことになるのだろう。2017/1/23

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