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676. だから日記を読み、日記を書く


——私たちが人生の空しさを超えるのは、ただ、自らを激しく燃えることによって、刻々の時間に永遠の刻印を押すしかない——辻邦生 振り返れば、今日も一日中、何かしらの文献と呼吸を共にしていたように思う。確かに、私は研究活動や仕事の都合上、専門書籍や学術論文に目を通すことが多い。

そして、それらの文献に目を通すことは、自分の心を満たしてくれる非常に大切な行為であり、この行為がない日常を私は想像することができない。ある著者の考え方や思想が、一つのまとまった形になったものが専門書や論文であるために、彼らの考え方や思想を整った形で学ぶことに関して、専門書や論文からは得るものが多くある。

しかし、私が一番多くのことを得ることができると思っているのは、探究的な人間が書き残した日記である。私は、専門書や論文をできるだけ丁寧に読みたいと常々思っているが、実態はそうではない。

だが、日記だけはなぜだか丹念に読むことができるのだ。丹念に読む行為を仕向ける日記には、どこか私を引きつけてやまないものがある。私は、専門書や論文を読むこと以上に多くのことを、特定の思想家や探究者の日記から得ているように思う。

つまり、一番多くのことを私が得るのは、一つのまとまった形を持つ専門書や論文ではなく、その思想家や探究者がどのように日々を生きていたのかを色濃く映し出す日記なのだ。結局のところ、専門書や論文から得られるものは、どこまで行っても探究者の経験や実存性が硬い殻に包まれた知識であり、そうした知識は重要でありながらもそれ単独では無用の長物である。

大切なのは、硬い殻に覆われた知識の中に梱包されている経験や実存性そのものを掴むことであり、紐解かれた後の知識を日々の生活の中で活用する主体そのものの成熟だと思うのだ。そして、そうした主体の成熟に影響を与えてくれるのは、専門書や論文というよりも、探究者の実存性が滲み出る日記なのだと思えて仕方ない。

私は、その思想家や探究者が、自分の思想を通じてどのように日々を形作り、一日を積み重ねていったのかに関心があり、それに感化されるのだ。辻邦生先生や森有正先生が書き残した一連の日記に打たれるものがあるのはそのためだ。

そして、それゆえに、私は彼らの日記を丹念に読むのだろう。今日もそのような一日だった。

午前中から夕方にかけて、専門書や論文をいくつか読み、それがひと段落した時、ふと書斎の本棚に目をやると、辻邦生先生の『愛、生きる喜び』という書籍が目に飛び込んできた。この書籍は厳密には日記ではないのだが、この書籍の中には、辻先生の日記からの抜粋がある。

そうした日記からの抜粋に対して、感じざるをえない何かがあったのだ。日記にはやはり、その著者の実存が立ち込めているのだ。確かに、私は言葉の力を信じ、言葉を大切にしたいと思う。

しかし、私がそうした思いに至るのは、言葉を超えたものが言葉に宿ることを知っているからだ。つまり、大事なのは、形を伴った表面上の言葉ではないのだ。言葉の奥に滲み出している言葉にならないものを感じ取ることが大事であり、それは往々にして、専門書や論文の体裁では消失してしまうのである。

しかし、それは日記の中では消失することなく、存在の灯火を燃やし続けることができるように思うのだ。だからこそ私は 、自分を感化してくれる思想家や探究者の日記を読むのだと思う。

そして、だからこそ私は、毎日日記を書くのだと思う。2017/1/22

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