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668. 衝迫さを超えて


本日、「複雑性と人間発達」のクラスに参加するために、キャンパスに向かっている最中、近くの運河が凍っていることに気づいた。論文アドバイザーのクネン先生から話に聞いていたように、冬になるとフローニンゲンの運河は凍結し、そこの上をスケートできるということだった。

実際に、近所の運河が凍っているのを発見した時、一人の男の子が凍った運河に恐る恐る足を付けていた。どうやらまだ完全に凍っていなかったようであり、スケートができる日はもう少し先のようだ。

運河が完全に凍結するのはまだであるが、街の歩道の多くには雪が降り積もっており、時折、滑りやすい箇所がある。今日も何度か滑りかけ、少しバランスを崩すようなことが何度かあった。

そのたびに、少しばかり笑みが自然と漏れた。実際に、道行く子供たちの幾人かは、あたかもスケートを滑るように、滑りやすい箇所を楽しそうに進んでいる光景を見かけた。

キャンパスに向かう最中にいつも通り抜けるノーダープラントソン公園では、散歩に連れられた犬たちが、リードを外され、楽しそうに雪の積もった芝生の上を駆け回っていた。フローニンゲンの冬は、寒さが厳しく、日照時間が短いという、一見すると否定的に思える気候条件の中に、冬ならではの喜びや楽しさが隠れていることに気づいた。

ここに私は、夏とは違う陽気さを冬の中に見いだすことができるのだ。公園を通り抜ける私の足取りはとても軽く、一面が雪化粧で包まれた辺りの中を、心躍るような気分によって頬が紅潮するかのような感覚で歩いていたのだった。

このように、冬という季節が持つ明るい側面に気づかせてくれたのは、フローニンゲンの冬が初めてだと言えるかもしれない。それともう一つ、フローニンゲンの冬が私にもたらしてくれたことがある。

それは、平穏な心境の中で衝迫的に探究活動に従事できるようになったことである。これは私にとって、とても大きなことだと言える。

欧州に渡る前後の私は、何かに取り憑かれたような状態で衝迫的に探究を進めていたように思う。それはまるで、正常さと異常さの境界線上を歩いているような状態であった。

この境界線上を歩くことによってしか得られぬものがあることは確かだろうが、その状態は、正常さに転ぶのか異常さに転ぶのか、という危険性が常に内包されていたように思うのだ。

さらにこの状態には、どこか当時の自分の心身の許容量を凌いでしまうようなものがあったのも確かである。だが今の私は、この境界線上をいったん渡りきったという確かな実感がある。

これは私の心身の許容量が拡張したためにもたらされたのかもしれない。仮にそうでなかったとしても、衝迫的な探究を超えた形で現在の探究活動に従事できていることは疑いようのないことなのだ。

そして、これをもたらしてくれたのは、フローニンゲンの冬だと思っている。まさにそれは、フローニンゲンの冬が私に与えてくれた恵みだと表現していいだろう。

衝迫さを通じて探究していた時の私は、ある意味、一つの大きな変化の波に乗りながら日々の活動に従事していたように思う。変化の波に乗るというのは、当時の私にとって、最初に通らなければならないプロセスだったように思う。

しかし、今の私は、もはや変化の波になど乗っていないという確信めいた感覚がある。変化の波に乗るのではなく、絶え間ない変化の波を生み出す「それ」そのものと一体化し始めているのを感じるのだ。

ここに、何かに取り憑かれたような状態で衝迫的に探究を進めることを超えて、私に取り憑こうとするものそのものと自己が一体化することにより、衝迫さを超えた次元で探究活動が形作られているように思うのだ。

これが真に可能になった時、私は絶え間ない変化の中で、生涯にわたって自分の言葉を紡ぎ出していくことができるような気がするのだ。その結果として、それが何らかの作品としての形を成すのだと強く思う。2017/1/19

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