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663. 既踏の道と未踏の道


辺りは一面雪景色のままであるが、今日は今朝から天候に恵まれている。起床直後はいつも闇に包まれているため、朝の九時近くになるまで今日が良い天気なのかを肉眼で確認することはできない。

辺りが少しずつ明るくなってきた頃、今日は天候に恵まれた日であると始めて知る。そうした気づきを得た後、午前中は第二弾の書籍の加筆修正を行っていた。加筆修正を行ってみると、文書を寝かせて正解であったことに改めて気付く。

文書をしばらくの間寝かせることは、私自身の内面をさらに熟成させることと同義であり、内面が少し深まった状態で改めて文章を読み返すと、色々なことに気付く。確かに、それらの多くは、論理的なつながりであったり、言葉の選択であったりと細かな点である。

しかし、それ以上に重要なのは、しばしば一段深掘りされた考えが文章に付加されることがある、ということだ。午前中は文章を読み返しながら、細かな修正を加え、一段深掘りされた考えを文章に付け加えていくということを行っていた。

加筆修正がひと段落ついたところで、ランニングに出かけることを決意した。書斎の窓からストリートの状況を確認してみたところ、歩道は雪で埋もれているが、自転車道は雪が積もっていないことを発見した。

そのため、近くのサイクリングロードを走ることにした。黄金色に優しく輝く冬の太陽を背にし、私は一歩一歩の足取りを確認するかのように走っていた。すると突如、自分はフローニンゲンという街に捕まったのではないか、という感覚に襲われた。

ただし、これはそれほど強い束縛感ではなく、この街にもう少し留まっていたほうがいいという柔らかな感覚であった。具体的には、当初の計画ではフローニンゲンの街で二年間ほど生活をする予定であった。

しかし、この突発的な感覚に見舞われた時、さらにもう一年滞在期間を延ばし、三年ほどフローニンゲンの街にいることが望ましいのではないかと思ったのだ。そうした思いにさせたのは、おそらく、フローニンゲン大学での学びの密度が非常に濃いいことと関係しているだろう。

正直なところ、自分が想像していた以上に、密な学びが得られているという実感がある。同時に、二年間という期間ではフローニンゲン大学で学び取るべきことを、その髄まで学び取ることができないのではないか、という思いが無意識の領域から顔を出したのだ。

実際に私は、フローニンゲン大学での二年目の学びに関して、二つのプログラムの間で揺れていた。どちらも私にとって非常に重要なものであり、どちらも捨て難いという思いが強くあったのだ。こうした学びに伴う衝動的な感情は抑えようがない。

仮にこうした感情に純粋に従うならば、私はこの街に三年間いることになるだろう。そのようなことを思いながら、サイクリングロードを走り続けていた。

いつもあれば、サイクリングロードを途中で曲がり、ザーニクキャンパスの方向に抜けていくのであるが、今日はそれをしなかった。というのも、サイクリングロードを走る最中に背中越しに降り注いでいた太陽光の存在がずっと気にかかっており、来た道を折り返すことで、その太陽を拝みながら走りたいという思いが湧き上がっていたからである。

優しさの中に厳しさを含む冬の太陽と直面し、私は自宅に向かって再び走り出した。視線を歩道にやると、歩道の上に足跡のない箇所があるのと同時に、足跡のある箇所があることに気づいた。

そこから、誰かが通った道を歩むことと誰も通ったことのない道を歩むことの尊さについて考えを巡らさずにはいられなかった。これはどちらかが大事なのではなく、どちらも尊重されるべきことだと思うのだ。

誰かが過去に通ったことのある道を辿ることによって、その道は強く太くなる。そして、強く太くなった道は、多くの人がその上を歩きやすくなる。一方、過去に誰も通ったことのない道を歩くことによって、その足取りの一歩一歩が、新しい道としてこの世界に誕生することになる。

そして、その新たな道を、自分の知らない誰かがまた辿ることになるのだろう。そのような様子がまぶたの奥に現れた時、私は、誰かが通ったことのある道をさらに強く太くするために、その上を自分の足で歩いていかなければならないと思った。

そして、誰もかつて通ったことのない道を、自分は開拓していく必要があるのだと強く思わずにはいられなかった。2017/1/17

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