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635. 幽遠世界の富士山


昨日、名古屋である会社を訪問させていただき、今朝は名古屋から東京へ向けて新幹線に乗り込んだ。新幹線に揺られながらしばらく仕事をしていると、左手の窓から雄大な富士山が見えた。

雲ひとつない冬の青空の下に白化粧をまとった富士山がたたずんでいる。そのたたずまいを眺めた時、富士山が現実世界に存在しているのみならず、幽遠の境地にもその存在を届かせていることがわかった。

自覚的な自己が融解し、富士山が放つ重厚さの伴ったエネルギーと同一化していく感覚に襲われた。先日、島根県の足立美術館で食い入るように眺めていた横山大観の作品群を思い出す。

大観は富士山をテーマにすることが多く、大観の内面の成熟に伴って富士山の表情が少しずつ変化しているような気がしていた。特に、晩年に描いた富士山は、物理世界に存在する富士山を描いたのではなく、心の眼や魂の眼でしか捉えることのできない幽遠世界に存在する富士山を描いていたのではないかとすら思える。

富士山は、私たち日本人にとって、非常に大きな意味を持つシンボルである。過去無数の人たちが富士山に登り、富士山を拝んできたという積み重なる歴史が、シンボルの意味をさらに深く重厚なものにしているように思えてならない。私が富士山を窓越しから拝んだ行為も、歴史の一部となり、シンボルの深みと重みを増すことに関与したのだと思う。

幽遠世界にたたずむ富士山を知覚した時、間違いなく私も幽遠世界にいざなわれていたと言えるだろう。そして、幽遠世界の深層からこみ上げてくるじんわりとしたものが目頭を熱くした。

時の流れない世界の中で、私はただただ富士山を見つめ、富士山としてその場に存在していた。時の流れを超越した幽遠世界の中では、自己と他の全ての存在は紛れもなく合致する。

本来、他の存在と自己が分離を超えて、統合に向かう時、幽遠世界の存在との真のつながりがもたらされる。私たちは、この物理世界を超えた世界に存在するものと真に繋がる時、理由のない涙が込み上げてきてしまうのではないだろうか。

この涙は、幽遠世界の存在との接触の証だとしか私には思えないのだ。2017/1/6

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