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624. 呼吸のように


今年も年末にかけて、集中的に文章を執筆し、第二弾の書籍の原稿を書き上げることができた。文章を書いている最中と書き上げた後に、日記に言葉を綴る余力がなかったことは以前に言及していたように思う。

日本に一時帰国してからも、東京の街を観光していたり、島根に旅行に行ったりしていたため、日記を書かない日が数日あった。これが功を奏してか、再び日記に文章を綴る力が湧いてきたようである。

振り返ってみると、九月から本格的にスタートしたフローニンゲンでの生活以降、一日たりとも休息を入れる日がなく、ひたすらに探究活動に打ち込んでいる自分がいた。文章を読むことと書くことが、休憩と同一のものだという境地にいつの間にやら行き着いていたのだ。

時折、仕事や探究活動を「遊び」という言葉で表現する人を見かけるが、そうした言葉を発することができるのは、真にその道を極めていった人だけだと思うのだ。仕事や探究活動を「遊び」という言葉で括る人たちの表現活動や創作物を見ると、十中八九、偽物であり、そこには滲み出す深みが一切ない。

それはそもそも、「遊び」という言葉を語る当人の中で、遊びという言葉が彫琢されていないからだろう。つまり、「遊び」という言葉の意味が浅薄であるために、その人の表現活動や創作物そのものも必然的に浅薄になってしまうのである。

今の私は、自分の偽物性を嫌という程自覚しているがために、間違っても自分の仕事や探究活動を「遊び」という言葉で括ることなどできない。そのようなことができるのは、少なくても数十年先のことだろう。

同様に、「自分の仕事や探究活動が好きだから続けている」と述べることも、非常に浅薄な表現であるように思える。確かに、私が仕事や探究活動を行う根底にある感情と「好き」という感情が持つベクトルの向きや味は似ているが、二つの感情は異質なものである。

私は間違っても、自分の仕事や探究活動を「好き」という一つの感情で表したくないし、それらを通じて遊んでいるとも表現したくない。そうした言葉で自分の活動を表現してしまう時、それは間違いなく自分の内側で自己欺瞞が発生してしまうのである。

自分の仕事や探究活動を、仮に何か別の活動と類比させるのであれば、呼吸をすることに近いかもしれない。遊んでいるというよりも、呼吸をするのと同じように、日々の自分の仕事や探究活動を行っているような気がするのだ。

また、「呼吸をすることが好きだ」と述べることがおかしな話であるのと同様に、「自分の仕事や探究活動を行うことが好きだ」と述べることにも違和感があることからも、自分の日々の活動を呼吸と喩えることは、現時点ではとても納得がいく。

要は、日々の仕事や探究活動が、自己の存在と密接不可分なものになってきているということである。そこから「呼吸を通じて遊ぶ」という遊の境地に至るには、並々ならぬ修練が要求されることになるだろう。2016/12/31

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