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599.「キャリア形成」なるものについて


先日からしばらく、何かを創出することについて、強い関心が続いている。結局のところ、私が関心を持つことのほとんど全ては、発達現象と密接に関係していることに気づく。一人の人間の中で、絶えず無数の関心事項が生まれるということと、それらの無数の関心事項が、その個人が持つ一つの究極的な関心事項から派生している、という現象は面白い。

私は発達現象を究極的な関心事項に据え、少しでもその関心事項の深淵に辿り着こうとするために、無数の派生的な関心事項と向き合っているのかもしれない、と思う。探究的な営みは、人間の発達プロセスそのものに他ならず、常に紆余曲折を経ながら進行していく。この「紆余曲折」という現象のおかげで、探究という大河の幅が広がり、深さが増すのである。

私が取り組んでいる知性や能力の発達研究というのは、つまるところ、これまでの段階では生み出すことのできなかった意味や機能を新たに創出していくプロセスを扱っているものだと捉えている。新たな意味や機能を作り出していくこと以外にも、新たな知識の体系を築き上げていくことなども、私にとって大きな関心事項である。 このような関心事項を抱えた状態で、昨日ふと、「キャリア形成」という概念について考えさせられていた。キャリアを形作っていくことの意味は、私の関心事項と重なる部分があると思ったからである。

もしかすると、世間一般で言われているようなキャリア形成の意味とは、全く違う意味付けを私は行っているかもしれない、と思わされた。既存の職種から、自分の特性に合致するような仕事を選ぶ作業は、キャリア形成では全くないと思うのだ。

自分の特性に真に合致する仕事を、既存の職種から探そうとするのは、幻を追いかけるような行為に等しいように思う。つまり、世間で言う「キャリア形成」という言葉は、自ら自律的にキャリアを創出していくという意味ではなく、自分の外にある既存の仕事を選別するような意味に成り果てているように思うのだ。

自分のキャリアを形成していくというのは、結局のところ、この世界に対して、仕事そのものを自分で創り出していくことに他ならないのではないか、と私は思う。自分に合致する仕事を外側の世界の中でいかに見つけようとしても、見つかるはずはないのではないだろうか。

仮に見つかったと思ったとしても、それらは往々にして、社会の風潮や他者の色に染められたものであり、自分に合致した仕事であるように思い込ませる巧妙な偽装が仕掛けられたものだと思う。

先日言及したように、この話題は、情報の単なる消費者と情報の生産者を扱った話題とも関係しているだろう。情報の単なる消費者は、既存の選択肢の中から仕事を選んでいくことしかできないように思う。

一方、情報の生産者には、自らの仕事を生み出していこうとするような気概と能力が備わっているように思えるのだ。情報の単なる消費者と情報の生産者との間には、埋めることのできない大きな溝があり、情報の生産者はごく少数であることを考えると、大多数の人々が自分に合致した仕事を見つけることができない、という現状にはうなづけるものがある。

自分に真に合致した仕事を外側に見つけようとすればするほど、自分の内側から外側に向けて新たな仕事を創出していくという意識が弱まる。そうなってしまうと、自分のキャリアを真に形成していくという道から外れてしまうように思うのだ。

キャリアは外側から選ぶものではなく、とことんまでに自分の内側から外側に向けて創り出していくものだと思う。キャリアを「作る」という発想から、キャリアを「創る」という発想への転換が求められつつある時代になってきているように感じるのは、自分だけだろうか。2016/12/7

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