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595. 打たれる体験と魂の抜けた人たち


「真に考え抜き、真実に生きたことだけが人間を打ち、人間を打ったものだけが人間の遺産となる」という、フランス文学者であった辻邦生先生の言葉が脳裏から離れない。

人を打つことができるのは、本当にごく限られた人だけなのではないか、と確かに思わざるをえないことがよくある。それぐらい、人を打つ領域に到達するのは、生半可なことではないと思うのだ。

しかしながら、私は、人を打つことができる人たちの共通点のようなものを最近見出しつつある。人を打つ領域にたどり着くための最初の出発点は、人に打たれることである。

つまり、他者を真に打つことができるのは、他者から真に打たれたことのある人間である、ということだ。これまで、数多くの人を打ってきた偉人たちを見てきたが、彼らに共通しているのは、彼ら自身も、人生のどこかで必ず他者から打たれているのである。

ひょっとすると、人を打つことの最大の特徴は、伝播することなのかもしれない。ある偉人の霊力が、ある人物を打ち、その人物はその偉人の霊力の恩恵を授かる。そしてそこから、その人物は自分の霊力を高めていくのである。

そのようなことが起こっている気がしてならない。ここで注意が必要なのは、他者から打たれたことのある人物が、必ずしも他者を打つ人物に変容するとは限らない、ということである。

最も重要なことは、他者に打たれてから、自らの霊力を磨く鍛錬に継続的に取り組めるかどうかにある気がしている。他者から打たれる体験というのは、夏の陽気に触れることに似ている。

仮に、夏の陽気に浮かれたままであっては、自分の中の霊力は深まりを見せることは一切ないだろう。大切なことは、夏の陽気をやり過ごし、秋を通過し、光の当たらぬ真冬の時代の最中で、いかに継続的な鍛錬を積むことができるかにある、と私は考えている。

私を打ってくれた偉人たちは皆、必ず他者から打たれ、自身の真冬の時代の中で、愚直に鍛錬を積んでいたことを教えてくれる。そんな彼らが残した仕事に打たれるのは当然でありながら、同時に、彼らの生き様そのものに対して、私は打たれるのだ。 そのようなことを考えながら、また別の観点からこの話題について考えていた。何かに打たれる体験は、不思議なことではないはずなのに、何かに打たれることのない人がいかに多いことかに気づかされる。

私は、何かに打たれるための最低限の条件は、自分の魂を持っていることだと思う。人間であれば誰しも必ず魂を持っている、という言説に対して、私は疑いの目を向けるようになってきている。

自分の魂を持っていることは、何かに打たれることの最低限の条件だと述べたが、自分の魂を持っていさえすれば、人はどこかで必ず何かに打たれるのではないか、という発想を私は持っている。世間を見渡して、何かに打たれることのない人が繁殖しているというのは、自分の魂を持っていない人間が増殖していることの表れなのではないか、と危惧している。

より正確には、この社会には、己の魂を明け渡してしまった人たちや、魂を剥奪されてしまった人たちで溢れ返っているように思うのである。魂を現世のくだらぬ物と交換させる狡猾な仕組みや文化、魂を剥奪するための巧妙な仕組みや文化が横たわっている気がしてならない。

そうでなければ、これほどまでに魂の抜けた人たちで溢れ返っている現代社会の事態を説明することはできない。2016/12/6

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