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594. 身体性を喪失した者たちの成れの果て


昼食前のランニングまでの時間、「複雑性と人間発達」の第四回目のクラスに向けて、少しばかり予習をしていた。第四回目のクラスを担当するのは、サスキア・クネン教授ではなく、物理学者のラルフ・コックス教授である。

クネン教授は発達心理学者であるため、彼女のクラスは心理学の色が濃いいが、コックス教授は物理学者であるため、彼のクラスは数学の色が濃いい。その回のクラスでは、「システムの特定」や「フラクタルの尺度化」など、少し専門的な内容を扱うことになっている。

コックス教授が担当した以前の内容について記憶を辿っていると、ダイナミックシステムのモデル化の技法について説明したスライドを思い出した。「ダイナミックシステム」と一口に言っても、実際には、異なる特徴を持つ多様なダイナミックシステムが存在しているのだ。

物理学の観点から言えば、1次元からn次元までのダイナミックシステムが存在しているし、数学の観点から言えば、システムの決定論的度合いと確率論的度合いによって、様々なダイナミックシステムが存在している。

次元を縦軸に、決定論的・確率論的度合いを横軸に取った図を眺めると、ダイナミックシステムアプローチで扱うことのできる領域がごく限られたものだということに気づく。ダイナミックシステムというのは、とても奥の深い現象なのだと改めて思った。第四回目のクラスで得られるであろう知見をもとに、少しでも自分の探究が前に進んでくれればと願う。 毎日、雑多なテーマに対して取り留めもない思考が巡っている。先日からの関心を引き継いでいたのは、骨太の思考をいかに獲得するか、というものである。専門書や論文を読む際、あるいは、他者の発言に耳を傾ける際に、その著者や発話者が、実に骨太の思考を展開していることに気づくことがある。

こうした骨太の思考を可能にするものについて考えていた時、そもそもそうした思考を支えるための、強靭な言葉を獲得することが必要なのではないか、と思った。強靭な言葉は、まさにその人に根付いた言葉である必要があるだろう。

逆に述べると、その人に根付いていない言葉は、強靭な言葉として外側に響いていかない、ということである。世の中で用いられている言葉を眺めてみると、強靭な言葉というものがめっきり減少しているように思う。

その様子はどこか、多くの人たちが借り物の言葉を用いて毎日の精神生活を営んでいるように映るのだ。多くの人たちが情報を自ら生み出す生産者ではなく、単なる情報の消費者に成り下がっているのは、上記の点と密接に関係しているように思う。

他者からの借り物の言葉を用いて精神生活を営んでいる者に、情報の作り手になれと言っても、それは到底無理な話だろう。情報社会の中で生きているというよりも、情報社会の中で操作されているという状態から少しでも脱却するためには、まずは自分の内側に根ざした言葉を獲得することが大切なのではないだろうか。

こうした言葉を獲得することは、情報を自ら生産するために重要であるばかりか、借り物の言葉を見分ける胆力につながると思うのだ。昨日、発達心理学の古典的な専門書を読んでいた時、私たちは言葉を獲得する以前に、身体動作を獲得する必要がある、という当たり前の記述に打たれるものがあった。

私たちの言葉は、そもそも身体的な動作を獲得する発達段階を基礎にして生まれてくるものなのである。昨今、胆力のないひ弱な言葉しか見かけなくなってきているのは、現代人は自分の身体性を蔑ろにしているからではないか、あるいは、身体を蔑ろにする形で発達を遂げてきてしまったからではないか——これは歪曲された不健全な発達と言えるだろう——、と思った。

自分の身体性を蔑ろにすることは、骨太の思考を不可能にするばかりか、もっと深刻なのは、自分の内側の感覚に根ざした己の言葉を喪失することにつながる、ということだろう。そして、己の言葉を喪失した者たちは、情報の単なる消費者に成り下がり、情報社会の中で操作され続ける存在になる、という構図が生まれている気がしてならない。2016/12/6

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