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542. 意味世界を開くことについて


今日は午前中のオンラインゼミナールのクラスを終え、昼食前にランニングに出かけようと思った。しかし、天候があまり良くなかったので、ランニングに出かけることをやめ、代わりに今日は、書斎の本棚にある気になる本を、無計画に気の済むまで読むことにした。

午前中のオンラインゼミナールでも取り上げたのだが、日々の自分の仕事の足取りを確認してみると、面白いことに気づく。それは波のように寄せては返す類のものなのだが、数年前の波と今の波は、種類がまるっきり異なっているように思えたのだ。

以前の私の足取りは、より変動性が高い波であったように思う。乱高下が激しく、変化に富むものなのだが、そこには安定性が欠けていたのだ。一方、ここ最近の自分の足取りを確認してみると、それは確かに変動性が確保されていながらも、安定性も兼ね備えた波として顕現していることに気づく。

自分の仕事は長大な時間の中で緩やかにしか進展していかない、ということを百も承知なのだが、それでも、時にその進行に対して不安のような気持ちが押し寄せてくるのは、疑いようのない事実なのだ。今の私は、こうした不安感を生み出す正体を突き止め、確信を超えた確信の中で、緩やかに耐えず仕事を前に進めていきたいと願う。

今年の夏の欧州小旅行の際、ドイツのリアーからハノーファーへ向かう列車の中で、自分の生命の有限性を突きつけられるような感覚に襲われた。おそらく、ハノーファーへ向かう車窓から、突如として眼前に現れた古城を眺めた時だったと思う。

自分の生命が紛れもなく有限なものであり、簡単な演算によって、自分が生涯の間に残せる仕事の量が算出されてしまった時、暗澹たる気持ちになったのを覚えている。これはある種の絶望感と言ってもいいかもしれない。

紛れもなく、自分を覆い尽くしているのは、今朝のフローニンゲンの街を覆っていた暗闇のようなものである。だがそれでも、僅かばかりの光を探し、光を自己にもたらしていくことが大切なのだろう。

今私が直面している問題は、非常に厄介なものだと思う。非永遠というものに対して、暗澹たる気持ちになる一方で、永遠というものに対しても、立ちすくんでしまう自分がいるのだ。

非永遠な生涯の中で、永遠を体現した仕事を残すことに向かって進んで行くことは、大きな苦しみを伴うものだと実感している。歩みを前に進めるたびに、苦しみが深まるかのようにすら思えるが、それでも歩き続けることでしか、この問題に対する光を得ることはできないだろう。

書斎の本棚から手に取ったのは、井筒俊彦先生の全集第八巻『意味の深みへ』であった。本書を何気なく開いた時、ある重要な記述とともに、このところ疑問に思っていたテーマについて、目には見えないほどの小さな進展があった。

私たちの内側の意味世界は無限に深まっていき、それは見えないところが絶えず進行している流れのようなものである。これは馴染みのある表現かもしれない。私が疑問に思っていたのは、内側の意味世界と、それと外界をつなぐ自己との乖離についてである。

具体的には、外側の世界と繋がっている自己としての私が、内側の意味世界について文章による記述をいくら続けても、終わりがないどころか、常に自分の言葉が内側の意味世界に対して劣後している感覚があったのである。

内側の意味世界の流れの進行に対して、自分の言葉が全く追いつかないという事態に、私は頭を悩ませていたのである。しかしこれは裏返せば、内側の成熟の次なる姿は、私たちの言葉に先行する形で、すでに内面世界に存在しているのだ、と捉え直すことができるかもしれない。

発達という言葉の語源に「開く」という意味があるのは、まさにそうした意味においてなのだろうと察知した。私にとって、先行する内側の成熟に対して、真に形を与えるために、文章を書くことは極めて重要なのだ。

内側の意味世界に対して常に劣後している言葉を用いながら、意味世界に迫っていくことこそが、自己を開いていくことなのだと思う。

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