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535. 内なるダイモーンと絶えない灯火


異国の地で、終わりのない彫刻作品を作り上げることと毎日向き合っている。彫像を掘り進める時、打ち間違えや上手く掘り上げられないことがあるのはやむを得ない。重要なことは、ただひたすらにそれを掘り続けていく、という行為だろう。

より正確には、そうした行為の最中で深まる彫像と自己を同時に把握していくことだろう。作品と自己の両者を共に深めていくために、私は掘り続けていかなければならない。まさにそれを行うために、こうした異国の辺境の地に来たのだ。

昨夜、就寝前に、自分の内側から再び声が聞こえていた。この声はいつも、私をさらに駆り立てようとする。私の日々の探究の量や質に対して、いつもこの声は「話にならない」としか言葉を発しないのだ。

これまでの私は、この声に飲み込まれる形で、時に探究活動を激しく前に進めようとしたこともあった。しかし、往々にして、一過性の熱を持って何かに向き合おうとすると、そこには継続性がないのだ。

自分の仕事を絶え間なく継続させていくことの中に、私は価値を見出している。昨夜、内なる声が聞こえてきた時、私は一切の聞く耳を持っていなかった。だが間違いなく、そうした声によって、自分が揺さぶられているのを感じていた。

実際に、その声が聞こえてから、寝室を飛び出し、再び仕事に向かおうとすら考えていたのだ。結局、私はその声を押し殺す形で、就寝についた。一夜明けてみると、自分の内側で余分なものが削ぎ落とされているかのような、清々しい感覚が身体と精神の中に広がっていた。

起床直後、書斎の窓から見えた冬の小雨は、私の中の余分なものをさらに洗い流してくれるかのようであった。爽快な気持ちの中、ふと昨年日本にいた時に知覚したもっとも印象的なビジョンについて思い出していた。

あの時も、昼食後しばらく経ってから、ヨガのシャバーサナをしていたことを思い出した。その時に知覚したのは、イメージを生み出す深層意識のさらに奥深くにまで入り込み、強烈な原形色を伴ったあるビジョンであった。

それは、私の自我の諸々の側面が無数の下等生物となり、それらが灼熱の業火で焼き尽くされるというものである。自分の脳と意識が、このような非常に残酷なビジョンを創出しうるということにも驚いたし、そのビジョンが持つ原形色の鮮やかさにはさらに驚かされたのを覚えている。

振り返ってみると、この灼熱の業火そのものが私を象徴しているのではないか、と思ったのだ。いやむしろ、その業火は、私の内側にいるダイモーンを表しているのではないか、と思わされたのである。そのように考えると、非常に合点が行く。

昨日の声の主は、まさにこのダイモーンだったのではないだろうか。精神分析学的な説明を加え、それを自分のシャドーと捉えることができるかもしれないが、その存在は、自分の単なるシャドーではないことが歴然とわかる。

自分の内なるダイモーンを発見できたことは、極めて大きな意味を持つ。これまでの私は、そのように強大なエネルギーを持ったダイモーンの存在に気づかなかったばかりか、その存在を抑圧しようとさえしていたのである。

「話にならない」という言葉は、私の日々の探究について言及していたというよりも、内なるダイモーンに気づけないほどの内面の未成熟さに対して発せられたものだったのではないか、と思うのだ。ダイモーンからの目覚めの言葉と促しによって、私はようやく自分のダイモーンを見つけることができたのだ。

内なるダイモーンを発見した後に待っていたのは、一過性の燃焼ではなく、耐えることのない内なる灯火であった。

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