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533. エッシャーの『発展』という作品より


デン・ハーグのエッシャー美術館で鑑賞した幾つかの作品の印象が色濃く脳裏に焼き付いている。一つは、『発展(development)』という作品である。発達科学を探究している者として、この作品のタイトルを『発達』と呼びたいところだが、最初に翻訳した方が『発展』と命名しているので、それを尊重しようと思う。

実際には、エッシャーの『発展(development)』という作品は二つある。どちらの作品にも共通なのは、まさにエッシャーが生物進化の根本原理をそこで表現しているということである。それは何かというと、「差異化」と「統合化」である。

この根本原理は、人間の知性や能力の発達にも等しく当てはまる。それを証明したのが、まさに発達心理学者のハインツ・ワーナーの功績だろう。エッシャー美術館でこの作品を目撃した時、思わずその場で立ち止まり、この作品をじっと凝視していた。

凝視を続けていると、私はこの作品に対して、めまいのようなものを催してしまったのである。なぜなら、この作品には、無限かつ永遠なる差異化と統合化の過程が描き出されていたからである。

私たちの発達は、空間的に無限であり、時間的に永遠であるということを知った時、誰が正常な感覚でその事実を受け止めることができるだろうか?さらに、この作品の中央には、発達の始点である「アルファポイント」が何気なく表現されている。

ここから私は、エッシャーが何気なく——おそらく意図的に——描いた発達のアルファポイントから、無限かつ永遠なる差異化と統合化の極地について思いを馳せずにはいられなかったのだ。「無限」かつ「永遠」である発達過程に極地を見出そうとすることは、荒唐無稽に思えるが、発達の極地である「オメガポイント」について考えざるをえなかったのである。

発達のアルファポイントとオメガポイントは、両者別々のものでありながらも、それらは同じ地点に位置しているように思える。意識の発達が極地に到達すると、それはアルファポイントに帰還するのではないかと思うのだ。

ただし、注意しなければならないのは、フロイトとユングが陥った過ちに陥らないことである。つまり、フロイトのように、高次の発達段階の現象を低次の発達段階の現象に還元してはならないのだ。また、ユングのように、低次の発達段階の現象を高次の発達段階の現象に還元してはならないのだ。

要するに、オメガポイントを通過した後に到達するアルファポイントは、当初のアルファポイントとは歴然とした差がある、ということである。このようなことを考えると、発達とは退行することでも前進することでもなく、本質は帰還することである、と言えるのではないだろうか。

こうした考えはまるで、プラトンの認識論の根元にある「想起(思い出すこと)」を彷彿とさせる。想起という継続的な実践の果てに、オメガポイントが待っており、そこで私たちは初めて意識の本質に至るのではないだろうか。

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