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532. キーガンとウィルバーからの脱却と回帰


オランダでの生活で一つ厄介なのは、アマゾンで注文した書籍が到着することが遅いことである。物流面のシステムがそれほど整備されていないからなのか、注文予定日よりもだいぶ遅くに書籍が到着することがあったり、書籍のロスト率も米国や日本で生活をしていた時に比べると、格段に高い。

ある地点から別の地点に書籍を紛失することなく輸送するというのは、それほど難しいことではないと思うのだが・・・。本日、郵便受けに書籍が届いていることに気づき、おそらく先日注文した書籍のうちのどれかだろうと期待していたのだが、なんと二ヶ月前に届くはずであった書籍が、ベルリンからはるばる本日届けられたのだ。

到着予定日を一ヶ月過ぎた頃に、販売者に返金の依頼をし、すでに英国のアマゾンから新品を購入していたため、全く同じ中身の分厚い専門書を二冊保持することになってしまった。アメリカで生活をしていた四年間において、注文した書籍が届かなかったことは一度もなかった。

昨年、日本にいた時は、海外から専門書を注文した時に、一度か二度ほど書籍が届かず、返金の依頼をすることはあったが、いずれにせよ返金依頼は基本的に稀であった。少なくとも、日本にいた時は、注文予定日の前後数日以内に、確実に書籍が届いていたのだが、オランダでは注文予定日からだいぶ遅れて書籍が届くことの方が通常である。“Thinking in Complexity (2007)”という500ページほどの専門書の一冊を、複雑性科学に関心のある知人に贈呈しようと思う。

先日、「書くこと」について、また別の側面にふと気づくことが起こった。拙書『なぜ部下とうまくいかないのか』を執筆した際に思っていたことは、ロバート・キーガンの発達理論を中心に文章を書くということは、自分がキーガンの理論から離れることを意味している、ということであった。

つまり、長らくキーガンの理論を学んでいた私にとって、キーガンの理論を中心にして書籍を執筆するということは、キーガンの発達理論から脱却するための儀式的な側面があったのだ。アメリカの思想家ケン・ウィルバーの発達理論にせよ、キーガンの発達理論にせよ、二人の発達理論はともに、質的に奥深いものがあるのは間違いない。

しかしながら、最先端の知性発達科学の研究において、キーガンの理論が適用されることはほとんどなく、ウィルバーの発達理論においては皆無である。キーガンやウィルバーの発達理論は、現在においても色褪せない力を持っていることは間違いないが、それらだけを学んでいては、知性や能力の発達現象に関して、かなり多くのことを見過ごすことになるのは確かである。

どのような理論体系にも当てはまることだろうが、一つの理論体系のみを学んでいる最中は、その理論体系が持つ物語に私たちは絡め取られてしまうため、その理論が持つ限界に対して盲目的になってしまいやすい。

キーガンやウィルバーの理論体系の大きな問題は、その物語が非常に奥深く、かつ非常に魅力的なものに映るため、多くの人は一度その物語の虜になると、そこから脱却することがほとんどできない、ということにあるかもしれない。実際に、私自身も、彼らの物語を強く信奉している時期が数年以上にわたって続いていたのだ。

そこから、キーガンよりも遥か以前の偉大な発達論者たちの理論にまで遡ることや、最先端の発達科学の研究論文に触れることによって、徐々にキーガンやウィルバーの物語を客体化させることができるようになったのだと思う。

そうした客体化の末に、彼らの物語を盲目的に信奉するということから脱却できたように思う。そうした脱却作業の一つの形として、あの書籍を執筆したのだと思う。不思議なことに、あの書籍を執筆することによって、キーガンやウィルバーの理論と離れることができたのだが、同時に、彼らの理論がこれまで以上に自分の内側に入ってくるようになったのだ。

書くことというのは、まさに対象から離れることを私たちに促すと同時に、離れることによって、対象の本質に再び接近させるという力を兼ね備えているようなのだ。この構造は、自己を対象化させる試みの後、再び自己に帰還した際に、自分の内側のより深くへ迫っていくことができることと同じである。

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