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508. トマトとチーズと複雑性システム


今日は夕食中、唸ってしまうことがあり、思わず食卓を小刻みに叩いていた。近所のスーパーで購入したオーガニックの大きめのトマトと、チーズ専門店で購入したチーズを一緒に口に運んだら、その組み合わせが途轍もない美味を生み出していたのだ。

そういえば、イタリアン料理では、トマトとチーズを組み合わせるような料理がいくつかあることを思い出した。これまでの私は、なぜトマトとチーズを別々に食べていたのか疑問に思うほど、それらの組み合わせは絶妙であった。

この一件と、今日一日をかけて読んでいた “Thinking in complexity: The computational dynamics of matter, mind, and mankind(2007)“という書籍の内容は関係したものであることに気づく。本書は、さすがSpringer社から出版されているだけあり、複雑性システムに関する非常に中身の濃いい専門書である。

先ほど、トマトとチーズの組み合わせを「途轍もない美味」と表現したが、まさに二つが組み合わさった時の味は、トマトとチーズの単純な総和ではないことに気づくことができる。謎なのは、まさに二つの食べ物が掛け合わさった時に生まれる新たな味の存在であり、その味を生み出す内在的な力そのものである。

先ほど、皿の上に存在していたトマトとチーズは、動的なシステムの定義に当てはまらないのだが、それでも二つのものが組み合わさることによって、単純総和ではないものを生み出すことは大変興味深いことだと思う。

上記の書籍を読みながら、ライプニッツ、カント、ヒューム、シェリングという偉大な哲学者たちは、複雑性システムに対して非常に深い洞察を持っていたことに改めて気付かされた。特に、カントの洞察にはいつも必ず大きな感銘を受ける。

カントは、ニュートン物理学を生物学に適用することを痛烈に批判していた。というのも、生命を持つ有機体を「機械」と捉えるメタファーには、致命的な問題が内包されていることを理解していたからである。

機械というのは、運動する力を生み出せたとしても、運動を自ら組成するような力を持っていない、とカントは指摘している。つまり、部品の総和によって一つの全体としての力を生み出せたとしても、部品の掛け合わせによって単純総和以上の全体を生み出すことはできない、ということである。

また、機械は、一つの部品が不具合を起こすと、全体が一気に機能しなくなってしまう。これはなぜなら、その機械という全体が部品の単純総和で成り立っているからである。一方、有機体は、一つの部位に不具合が生じても、全体がそれを補うかのような回復力を持っているのだ。

要するに、機械は、部分の単純総和が全体を構成しているため、部分に不具合が起きてしまうと、それが一気にシステム全体に致命的な影響を及ぼしてしまう、という脆弱性を持つ。一方、有機体の全体は、部分の総和以上のものであるため、部分が不具合を起こしても、それが即全体に致命的な影響を及ぼすわけではない、という「反脆弱性(anti-vulnerability)」を持っているのだ。

有機体という複雑性システムが持つこのような特性は、アンリ・ベルグソンの「エラン・ヴィタール」や、ハンス・ドリーシュの「エンテレキー」などと合致するだろう。両者はいずれも、機械論では説明できない生命力を意味している。

まさに、人間の知性や能力の発達に関して、今の私が持っている関心は、有機体が持つそのような特殊な力なのだ。知性や能力が発達をする際には、常に新たな全体が作り出されることになる。

その全体が、以前の段階の部分の寄せ集めではないことは驚くべきことであるし、そこに新たに付加される機能や意味がどこからどのように生成するのかは、非常に大きな謎を残していると思うのだ。「複雑性と人間発達」というコースの始まりが近づくにつれ、無数の探究項目がまた浮かび上がってきそうである。

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