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452. 物の奥行き


本日は、激しい雨が通り過ぎ去った後の土曜日である。やはり仕事が複数あると、当然ながら優先順位というものがある。休日に取り組む仕事は、平日には取り組めないようなものの中で、自分が最も意欲的に取り組みたいと望むものを選ぶようにしている。

今日の午前中は、新オンラインゼミナールの教材作成の合間合間にオランダ語の最終試験へ向けた学習を行っていた。以前紹介したように、期末にこのような大きなテストがあることによって、これまでの学習内容を振り返る絶好の機会になる。

実際に試験に向けて復習を進めていく中で、習ったはずの知識に漏れがあったり、理解が不十分である箇所に気づくことができる。午前と午後の仕事がある程度落ち着いたところで、ふと昨日と同様のテーマについて考えていた。

昨日は「生きた読書」について考えることを迫られていた。今日はほとんど特定の文献をじっくりと読む時間がなかったのだが、それでもホワイトヘッドの哲学に関する書籍を読み進めていた。それでは果たして、今日の自分の読書が「生きた読書」だったのかと問われるといささか疑問が残る。

昨日は、「生きた読書」に関する特徴を列挙するところで思考が終わり、どのようにすればそのような読書体験を積めるのかに関しては一切踏み込んでいなかった。そうした影響からか、ホワイトヘッドの哲学に関する本日の読書から何かを得られたかというと、それほど大きなことはなかったように思う。

ノートに書き留められたメモもごくわずかであり、そこから自分の思考や感情が自己展開を始めることはほとんどなかったのだ。ただし、非常に難しいのは、果たして今日の読書が不活発なものであったかというと、それに対しても疑問が残るのだ。

確かに、今日の読書によって自分の内側で何も自己展開することがなかったため、表面上、それは「死んだ読書」の特徴に合致するように思える。しかしながら、ノートに残されたメモが時間という流れの中で濾過された結果、ある時ふとそのメモを起点として、私の内側で何かが自己展開する可能性が残されているようにも思えるのだ。

読書体験から内発的な自己展開が生じるためには、やはり対象と真剣に向き合うことが求められるのかもしれない。私の場合、往々にして、書籍を一読するだけでは内容を理解できない。繰り返し繰り返し読むことによって、内容の理解が徐々に深まっていき、同時に自己展開が生じるように思える。

同じ書物を繰り返し読むというのは、対象と真剣に向き合っている一つの証だと思う。ここからも再読を通じて書物と真剣に向き合うことによって、思考や感情が開いていくということが起こりうるように思うのだ。

一方、書物を一読するときにも、どこかに必ず自分の目を引く箇所が存在しているため、その箇所に遭遇した時は何食わぬ顔で通過するのではなく、そこで立ち止まり、該当箇所の前後を含めてを繰り返し読んでみることが重要なのかもしれない。一つの文章や一つの段落と真剣に向き合い、繰り返し読むことによって、何かが動き始めるのを感じることが頻繁にあるのだ。

どうやら対象物には見えない奥行きのようながあるようだ。今日は限られた時間の中で単発的に複数の資料を読むことになったが、それらは同じ活字体であるにもかかわらず、奥行きが全く違うことに気づかされる。

それぞれに異なる意味が梱包されており、それらの意味にはまた別々の幅と深さが凝縮されている。その凝縮を開く作業は読み手に委ねられるが、私としては自分にとって重要な意味が梱包された文章を的確に掴むような感度が欲しい。

こうした感度を高めていくためには、やはり今の自分が何に関心を持っているのかを明確にしておく必要があるように思う。その点が曇っていると、書物から自分にとって真に重要な意味を発見することができなくなってしまうだろう。

そう考えると、絶えず自分の関心を書き留めておくという作業は、一つ大きな役割を果たすように思う。このようなことを考えさせられた契機として、本日目を通していたホワイトヘッドに関する哲学書が間接的な役割を担っていたのかもしれない。ホワイトヘッドの哲学書から得られたのは、内容的なものではなく、このような考えに至らせてくれた運動であるため、今日の読書も生きた読書だったのかもしれない。

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