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448. 生きた読書に向けて


ここ数日間、読むことと書くことの比重について考えている。直近の三年間の私は、書くことよりも読むことの方に比重が置かれていたのは間違いない。実際に一日中なんらかの専門書や論文を読み、文章を全く書かないという日が多々あった。

それぐらい、過去三年間の中で読むことに比重が置かれており、文章を書くことはそれほど多くなかったように思う。三年間貪るように読書をした結果得られたものは何であったかというと、それはよくわからないというのが正直なところだ。

もちろんそのように旺盛な読書体験を経たことによって、幾分自分の中の知識体系が拡張したように思うが、それは微々たるものであるように思うし、少なくともこの瞬間にはまだ形となって現れていないのだ。「書を読む」というのは、実は相当に奥の深い実践なのではないかと最近強く思わされる。

読めているようで、全く読めていない。そのような経験をしたことはないだろうか。私はこうした経験をしょっちゅうしている。頻繁にそうした経験をしているというよりも、何かしらの専門書や論文を読むたびに、常にそうした経験に見舞われているといったほうが妥当だろう。

「読めている」という現象を、書き手の考えや意図に忠実になり、それらを正確に理解していることだとすると、それは相当に難しい芸当だと思う。私は他者の文章を読むたびに、常に自分の考えや意図が顔を出すのである。

そうしたことから、私は常に自分なりの考えや感情などを投影しながら他者の文章を読んでいることになる。「読めている」という上記の定義に従えば、こうした私の読み方は「読めていない」ことに該当するかもしれない。

しかし、果たしてそうなのだろうかと考えるようになっている。そもそも上記の「読めている」という定義は修正の余地があると思うのだ。「読めている」という定義の中には、書き手の考えや意図を正確に理解して掴むということの他に、掴んだ内容に対して自分なりの考えを付け加える、ということも含める必要があるのではないかと思う。

というのも、書き手の考えや意図が文字の形で表された書物は、客観的な情報体であるが、その客観的な情報体に接する私たちは主観的な存在であり、外部の客観的情報に触れた瞬間に主観的な考えや感情が芽生えるというのは、実に正常なことのように思えるからである。

これは、先日紹介したように、身の回りにある何気ない物体や情景から主観的な思考や感情が誘発される、ということと密接に関係していることだと思う。私たちは、デカルト二元論のように主客が分かれた世界に生きているわけではないのだ。

主客が不可分の世界に私たちは生きているがゆえに、客観的な書物という情報体に接した時、主体もそれに応じて動き出すのは必然のように思えるのだ。そのため、書物を読むということの中には、不可避的に自分の考えを付け加えるという側面が内包されているように思える。

もちろん、主観的な考えを挿入する前に、著者が述べている内容を適切に掴むことが要求されるが、そうした要求に従うだけでは書物を読んだことにはならないのだと反省させられる。読書というのは私たちが思っている以上に能動的な営みであり、著者の考えを受けてどのような考えを自分なりに作り出していくのかが必然的に求められているのだ。

ここからさらに、昨夜面白いことに気づいた。昨日読んでいたベルグソンの全集や発達科学の優れた論文が集められた “Change and development: Issues of theory, method, and application (1997)”を振り返ってみると、自分が一日の間に「生きた読書」と「死んだ読書」という二つの種類の読書を行っていたことに気づかされたのだ。

「生きた読書」というのは文字どおり、著者と読み手である私があたかもその場で対話を行っているかのように、著者の文章によって私の内側が触発され、文章を読むことによって自分なりの考えや感情などが芽生えていく、というような書物との向き合い方である。

一方、「死んだ読書」というのは、字面を目では追っているものの、その内容によって一切こちら側が触発されず、文章を読むことによって結局自分の中から何も生み出されないような経験を伴う書物との向き合い方である。

そして重要なのは、「死んだ読書」によって仮に書物で書かれた内容が頭に残っていたとしても、それは間違いなく「死んだ知識」である。後日、それを取り出そうとしても往々にしてうまく取り出せないだろうし、実践の場で活用しようと思っても、活用に足るだけの情報エネルギーを内に秘めていないのだ。

一方、「生きた読書」で得られた知識というのは、それが自分の内側を一旦通過しているがゆえに血の通ったものであり、生き物のように多様な文脈に適応するような力を発揮することができる。つまり、そのようにして獲得された知識には、多様な文脈でそれを活用する実践力が備わっているのである。

自分が「生きた読書」を行っているのか、「死んだ読書」を行っているのかの違いを感じ取れるようになってきているため、あとはいかにして全ての読書行為を「生きた読書」に変えていくのかの方法を自分なりに打ち立てていくことにあると思う。二つの読書行為の差をより明確にするために、しばらくは書物や論文との向かい方を毎日モニターしていく必要があるだろう。

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