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445. 時間超越的な意識の中で


夕食をとりながら、食卓の窓越しに黄金色をした木々が闇夜の中で揺れているのに気づいた。この光景を目にした時、今日も一日が終わりに近づいていることを実感した。

客観的な物質がある主観的な精神状態を喚起するということは注目に値することであり、そういえば自分の日記における客観的な情景描写が、いつの間にか主観的な思考や感情を導いていることが多々ある。

もうすこし深くこのプロセスを見てみると、どうやら最初の段階から目には見えない思念や情念のようなものが私の中にあり、それらを心の奥底では最初から表現しようと思っているのだが、それらは輪郭しか持っていないため、客観的な物質や情景を描写することを通じて、輪郭に肉感を与えているのだということに気づいた。

客観世界を観察し、そこから喚起されるものを一旦言葉にすることによって、思念や情念がよりクリアな形となっていくのだ。このようなプロセスを見て取ると、どこからが客観世界でどこからが主観世界なのか、について線引きをすることは極めて難しいことがわかる。

夕食後、一日の仕事内容を振り返ってみると、今日は昼食後の仮眠を経たのち、論文提案書のドラフトがほぼひと段落ついた。来週の月曜日にクネン先生とのミーティングがあり、明日あたりにドラフトを先生に送っておこうと思う。

自分が今やるべき仕事や一生涯をかけてやり続けていく仕事は何なのかを、毎日どこかの時間帯で必ず考えるような日々が続いている。実際には、「考える」という能動的なものでは決してなく、なぜだか「考えさせられる」ことを迫られているのだ。

これはフローニンゲンで流れる時間感覚と密接に関係しているような気がしている。今私がこの街の生活で感じている時間感覚は、もはやゆったりとしているというよりも、時間など初めからこの世界に存在していないのではないか、と思わせるような時間質を持っているのだ。

時間の流れを超越するとき、時間などそもそも流れていなかったのだ、ということに気づかされることも頻繁に起こる。未だ謎が残るのは、時間の流れを超越しているときに感じていた感覚は永続的なものではなく、日常の多くの時間は、時間の流れに乗っているという感覚を持っている点である。

やはり時間を超越している現象は、意識の状態的なものであり、それは永続的なものではなく一時的なものなのだろう。さらに観察を続けてわかったことは、一時的な現象に過ぎない時間超越的な状態に参入する頻度と長さは、この街で生活する日数を経るごとに増加しているということである。

意識の状態と意識の構造に関する古典的な原理は、高次の意識状態の経験量が臨界点を超えたとき、それは意識の構造として形作られうる、というものである。その原理から考えると、今の私は時間超越的な意識状態が、構造として顕現する方向に向かっているのだと思う。

こうした時間超越的な感覚の中で日々の仕事を進めていくことでしか見出せぬものや成し遂げられぬものがあることにも気づく。こうした感覚をもたらしてくれる環境の中で、日々の生活や仕事を営めることは非常に有り難いことである。

しかし、そうした特殊性に囚われないこと、そして特殊性から目を背けないことが重要だ。特殊性の中にあってそこでしか見えぬものや聞こえぬものに形を与え続けていくことは、自分に課せられた一つの重要な仕事だと思うのだ。

兎にも角にも、自分の中で形として表出したがっているものに形を与え続けていくこと以外に、今の自分ができることはないのかもしれない。

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