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444. 時空の交差と文脈


緯度の高いヨローッパ地域に特有の晴れの少ない冬に入りかけているのを感じている。そうした最中、朝一番の仕事を終えた後、ノーダープラントソン公園へランニングに出かけた。目を凝らして観察をしながら公園内を走っていると、前回のランニングとは違うわずかな変化を、公園内の自然から見て取ることができる。

公園という大きなくくりで見たとき、公園という存在そのものに変化はないのだが、公園内の自然に限定してみた場合、それは確かに変化しているのだ。ここから、文脈は入れ子構造になっており、一つ下の階層にある文脈内では多様な変化が起こっており、一つ上の階層にある文脈は比較的安定的なのではないかと思った。

そのようなことを思った瞬間に、先日読んでいたダイナミックシステム理論に関する書籍の中で、ダイナミックシステムは複数の階層構造を持っており、ある階層構造での変化が臨界点を迎えると、次の安定的な階層構造に移行する、という記述を見かけたのを思い出した。

静かに変化の歩みを進めている公園内の自然という文脈の中で、私は一定のペースで走りながらも、自分自身の中で起こっている変化の音に耳を傾けるかのようにランニングを続けていた。ランニングの帰り道、昨日通りかかった教会の前に差し掛かった時、昨晩出会った二人の少年との出来事が思い出された。

昨夜もこの一件から文脈について考えさせられていたのだ。文脈そのものに特定の記憶が紐付いているかのように、教会の前で私は昨日の出来事を回想していた。特定の記憶は特定の文脈の中に埋め込まれ、同一の文脈に自己が投げ込まれた時、その記憶が蘇ってくるのではないかと思わされるような状況であった。

文脈の入れ子構造の性質は実に複雑であり、どの文脈とどの文脈が階層構造になっているのか明確にできないものが無数に存在しており、時には複数の文脈が交差し合っているような場合もある。まさに時空が交差するかのように、昨日遭遇した少年たちとの小さな出来事を思い出していた。

すると突然、時間と空間がさらに飛躍し、この夏に訪れたパリのルーブル美術館での記憶に立ち戻っていたのだ。私がルーブル美術館の中で見た「モナリザ」に失望感を覚えたことは、以前の記事で言及していたように思う。

あの時の失望感を今になって振り返ってみると、やはり「モナリザ」という作品が、本来存在するべき文脈から切り離された形で展示されていたがために、あのような何とも言えない哀れさを感じたのだと思う。同時に、あのような形で展示されることによって、「モナリザ」という作品が本来持っている特質とは違う異様な個性を発していたのも事実である。

同じ絵画作品であるのに、それが置かれる場所によって発揮される特質が異なるというのは、まさに人間と同じだと思った。ルーブル美術館の「モナリザ」に関する記憶と紐づく形で、私の脳内に格納されているのは、スイスのニューシャテルで訪れたデュレンマット美術館に関する記憶である。

この美術館がある土地は、作者のデュレンマットが実際の創作活動をしていた場所でもあり、彼が生活を営んでいた場所でもある。作者が生きた場所に展示されている作品は、どこか血の通った生き物であるかのようなみずみずしさを発しているように感じたのを今でも鮮明に覚えている。

文脈というのは無生物・生物を問わず、血を通わせることにもつながる一方で、血を抜き取ることにも繋がりうるのだ。文脈が持つ力や性質というのは、まだまだ未知なものが多分に残されている。「文脈」という一つの言葉は、これからしばらく私の頭から離れることはないのかもしれない。2016/10/13

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