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437. 熱感


四時に起床後、早朝からある程度の仕事を済ませ、九時から始まるオランダ語のクラスへ向けて家を出発した。キリッとした寒さが広がるフローニンゲンの街に一歩繰り出してみると、十月の第二週目にもかかわらず、もうマフラーが必要だと感じた。

確かに、すでに道行く人の中にはマフラーを巻いている人もいる。こうした寒さにあっても、私の内側に広がっている熱感は一向に冷める気配がない。外の世界の気温が下がれば下がるほど、私の内側の世界の気温は上昇していくかのようである。

こうした冷めやまぬ内側の熱い感覚に目を向けてみると、それを “passion”や “enthusiasm”という言葉で捉えることに対して相当に違和感が生まれてくるようになった。実際に、私はそれらの言葉をもはや口にできなくなってしまっている。

そうした言葉は自分の内側で湧き上がる熱い感覚を正確に言い表しておらず、それらの言葉を用いることは非常に不誠実だと思うようになった。以前どこかで言及したように、自分の内側の熱感を言い表すのであれば “zest”という語彙がふさわしいように思う。

ここで二つの興味深いことに気づく。一つ目は、以前の私であれば、 “passion”や “enthusiasm”という言葉を用いて内側の熱感を表現していたことである。実際には、昨年東京にいた途中まではそれらの言葉に何も違和感を覚えなかったのである。

ある時をきっかけに、それらの言葉には収まりきらないような熱感が自分の中から湧き上がっていることに気づき、 哲学者のアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの哲学書を読んでいる時に“zest”という言葉に偶然出会ったのだ。内側の感覚質が変容を迎えると、これまでは何も違和感を感じなかった言葉が突然として活用できなくなることは、とても興味深いことではないだろうか。

二つ目は、前者の二つの言葉はともに「情熱」であり、後者は「熱情」という日本語訳を当てることができると思うが、文字が入れ替わっただけなのに、なぜこれほどまでに二つの語彙が発する色・匂い・音感を含めた力強さが異なるのだろうか、ということである。実際に試しに二つの言葉を声に出していただきたい。声に出してみると、二つの言葉が持つ言霊は歴然とした違いを持っていることがわかるのではないだろうか。

言葉に宿るこうした霊力は、脳科学的にも心理学的にも研究しがいのあるテーマのような気がしているが、それら二つの科学領域からアプローチをするだけではもちろん物足りない。普段私は、心理学を含めた科学的な世界に足を置きながら科学者としての仕事を進めているが、常に私を惹きつけてやまないのは超越的な哲学や形而上学などだ。

内側に湧き上がっている熱感に関する二つの興味深いを事柄を再び振り返ってみると、そこからさらに新しい発見事項に辿り着いた。二つの点を綜合してみると、いつか「熱情」という言葉すらも使えなくなる日が来るということに気づいたのだ。

数ヶ月前にすでにその予兆を察知しており、「熱情の果て」について思いを巡らせていたことが記憶に新しい。一人の人間の感情が質的にも量的にも大きな変容を遂げるというのは、私にとっては驚異的な事実に思える。

今のわたしにとって「熱情」という言葉は、ほぼ正確に今の自分の熱感を言い表していると思うのだが、極々僅かばかりの違和感があるのも確かである。この違和感を無視することもなく払拭しようとすることもなく、ただただ違和感を違和感として温め続けた先に、臨界点を超える日がやってくるのだと思う。

それはちょうど、今日のフローニンゲンの街が秋という季節の臨界点を突如として突破し、冬に移行したのと同じように、熱情の臨界点を超えた先には次なる言葉が自分を待っているのだろう。我慢に我慢を重ね、自分を抑えに抑え続けて生きてきた日々も終わりに差し掛かっていることがわかる。

情熱的な生というサイクルが終焉を迎えるまでに30年の月日が必要だった。そして、新たに始まった熱情的な生というサイクルが終焉を迎え、未知なるサイクルが再びやって来る日がいつになるのかは見当もつかない。しかし、その日は必ずやって来るのだ。冬の次には春が必ずやって来るように。2016/10/11

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