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431. 大空を羽ばたく二羽の鳥


自分の中の全ての事柄が、落ち着いた流れの中で進行しているのを感じる。八月の中旬に欧州小旅行に出かけたことがふと思い出され、あの時の私はそこでの体験を消化するのに相当な時間がかかると思っていた。

あの時の私は、旅で得られた重厚的な感覚質に飲み込まれそうになっていたことは間違いない。しかしながら今日、バランスボールに乗りながら自室の天井を眺めた時に、あの時の密度の濃いい感覚質はもはや自分の中に存在していないのではないか、と思わされたのだった。

あの感覚質は自分の中で間違いなく消化されたのか、それとも未だ自分の中のどこかに潜んでおり、発現の好機を伺っているのだろうか。いずれにせよ、今の自分は安定的な状態にあると言える。全てが静かに流れ、全てが静かに去っていくのだ。

自分がやると決めた仕事を毎日同じペースで淡々とやり続けていくことで毎日が過ぎていく。そこには目を見張るような変化もなく、静かで安定的な時空の中で全てのことが進んでいくのだ。

食卓の窓の向こう側に、二羽の鳥が大空を羽ばたいているのが見えた。少しばかりそれらの鳥を観察していると、彼らの動きが実に変化の富むものであることに気づいた。今日のフローニンゲンの朝はほとんど風がない。

風がないにも関わらず、それらの鳥は一直線に進んでいくのではなく、微妙に高さや速度を変えながら空を羽ばたいていることに気づいたのだ。私は大空という一つのキャンバスにデカルト座標を描いてみた。その座標空間の中に鳥たちを位置付けてみる。

今この瞬間の彼らの位置を設定し、次の瞬間に移動するべき地点はここだろう、と私が予想しても、彼らは私の予想通りには動いてくれない。実に予測のつかない形で、多様な軌跡を描きながら彼らは空を飛んでいるのである。

ここからまた色々なことを考えさせられた。無風の大空には、私の目ではわからないような乱気流が存在しているのかもしれない。安定的に見える空の中には、実は複雑かつ動的なうねりが存在しているのかもしれないと思わされた。

今私の目の前を飛び去っていった鳥たちは、こうした乱気流の中で懸命に羽ばたいていたのかもしれない。そして私が重要だと思ったのは、大空の中に生じている目には見えない乱気流の存在だけではなく、二羽の鳥たちそのものが気流を生み出しているということであった。

鳥たちが羽ばたくことによって、彼ら自身が気流の生成に一役買っているのだ。そんな鳥たちが私の食卓の窓に近づいてくる。彼らの表情は実に平然とした清々しいものであった。安定的に見える大空の中に、実は不安定なうねりが存在しており、そうした変化に富む空を自分たちは不規則に動いていたにも関わらず、彼らの表情は極めて落ち着いていた。

二羽の鳥は、未だ青みがかった街路樹の上にとまった。そして、二羽の鳥が優しいメロディーを奏で始めた。彼らの鳴き声の意味を完全に理解することは残念ながら私にはできないのだが、彼らが充実した対話をしているということは疑いようもなくわかった。

木に止まり、対話をし、休む二羽の鳥。彼らの対話の一部始終を見届けると、二羽の鳥たちは再びどこかへ羽ばたいていった。彼らの羽ばたく姿やそれが意味する内容は、今日初めて彼らに出会った時とはもはやまるっきり異なるものになっていた。

安定期のように見える不安定期や不安定期のように見える安定期が存在していたとしても、それは一つのサイクルとして永遠に続いていくものなのである。今朝感じていた安定期のように見える不安定期が終わり、不安定期に見える安定期がやってくる日は近い。

そうした最中にあっても継続的に活動を続けることが、動的な存在として生きるものたちの宿命なのだろう。

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