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398. 終点からの展開


週末の今日という日を終えようとしている今、私は朝からこの瞬間に向かって生きていたわけではないことを直感的に知った。この瞬間がすでに今朝に存在しており、この瞬間が後ろに引き伸ばされていく形で今日という私の一日があったことを知る。

それはまるで、物語のエンディングが設定されている状態からその物語が進行していく姿に似ている。もちろん、物語の中にいる私はそのエンディングを最初に知ることはできないし、物語の始まり方も進み方も無数の種類があるため、展開を予知しながら進むことなどできはしない。

ただし、ある定められたエンディングからこの物語が展開しているのではないか、というような感覚に包まれていたのだ。

そのような感覚に包まれていると、文章を書くことの中に、人間の発達プロセスの小さな模型を見出すことはできないだろうか、という問いが発せられた。文章を書き上げるためには、当然ながら始点が必要となる。そして、始点から文章が展開されていき、最後は必ず何かしらの終着地点へたどり着く。

始点と終点とそれらをつなぐ一連の流れは、全てどんな文章にも見られる要素だろう。ふと文章の終点に絞ってその特徴を眺めてみたときに、あることに気づいたのだ。それは、文章の発展過程が人間の発達過程と瓜二つなのではないか、ということである。確かに、文章はある始点を出発地点として展開していく。

しかし、それとは逆に、終点から文章が展開していくと見て取ることはできないだろうか。要するに、文章は始点から終点に向かって進んでいくのではなく、終点を起点にして進展していくという見方である。もしかすると文章には始点というものは存在せず、終点が最初の地点に置かれ、それが徐々に自己顕現を繰り返す過程で進展していき、結果として終点の位置に落ち着く、というイメージである。

視覚的には、始点から徐々に前進していくというよりも、終点から徐々に後退していくという姿が目に浮かぶ。そう考えると、これはある一つの決められた終点があり、それは始点としていかなる地点に置かれることが可能であり、終点の移動プロセスは多彩なものになる、という見方ができる。

この見方はまさに、ダイナミックシステム理論で見られる「等結果性(equifinality)」そのものに他ならないのではないだろうか。等結果性に関しては以前にも紹介したが、簡単に述べるとそれは、動的なシステムにおいて、いかなる初期値を設定したとしても、そしていかなる多様なプロセスを経たとしても、最終的には同一の状態に落ち着くことが起こりうる、ということを表す概念である。

私たちの自己の発達を考えてみたとき、自己実現や自己超越というのはまさに、終点からの展開過程の一つの帰結として見て取ることができるのではないだろうか。発達というのはやはりやって来るものであり、自己実現や自己超越というのは、向かうべき対象ではないという感覚の理論的根拠が掴めたような気がしている。

発達という現象が仮に始点からの展開過程であるならば、自己実現や自己超越は向かうべき対象になる。また、さらなる発達というものも常に獲得されるべき対象となる。

しかしながら、私たち誰もが経験しているように、これほどまでに自己実現や自己超越を成し遂げることが難しく、ましてや発達は望んだ時間に望んだ形でもたらされないことを考えると、やはり私たちは自己実現や自己超越の方向に向かっているのではない気がするのである。

非常に奇妙な見方かもしれないが、私たちには自己実現や自己超越を終点として与えられ、その終点が始点となり、後ろに下がっていくことに付き添う形で私たちは発達していく、というような描写になるだろう。始点から終点に向かって動いていくのと、終点を始点という起点に据えてそこから後退していく様は、見かけ上の動きはほぼ同一であるため、私はこれまでその動きの本質的な違いを見逃していたようであった。

ここからしばらくの間、発達の進展過程は終点を起点としている、という考え方を採用して日々の現象を観察し、その妥当性を検証したいと思う。

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