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384. 専門家の能力と使い方について


昨日読んだ論文の中で印象に残っているのは、 "Wither cognitive talent? Understanding high ability and its development, relevance, and furtherance(2013)” である。この論文では、多様な知性領域の中で「認知能力」に焦点を絞り、高度な認知能力とは何を意味するのかを議論している。その議論の中で、高度な認知能力と社会の発展との関係についても言及しており、教育政策や社会政策と絡めながら倫理的問題にまで踏み込んでいるのが面白い。

この論文を読むと、高度な認知能力を定義付けるのはつくづく難しいものだと思わされる。何よりもまず、ある認知能力が発揮される領域を特定・選択し、その領域を定義付けていかなければならない。

専門家でもない限り、多くの人は、認知能力とは全ての事柄に等しく適用されるもの、と思っているかもしれないが、実際にはそのようなことはなく、私たちの認知能力は特定の領域の特定の事柄に対して発揮される、ということが様々な研究から明らかになっている。

全ての領域の全ての事柄に適用されるような認知能力は存在しないため、高度な認知能力を定義付けていくときには、認知能力が発揮される領域を議論していかなければならないのだ。

次に重要になってくるのは、特定した領域の能力を正確に測定する手法の存在である。信頼性と妥当性の担保された測定手法がなければ、その能力を比べることなどできない。そのため、ある領域で発揮される特定の能力を適切に測定することができるアセスメントを開発することが重要になる。

最後に重要なのは、何を持って「高度」とするかである。これはもちろん、測定手法を開発する際にも議論されることである。構造的発達心理学の世界では、発達段階という質的差異に着目したある体系立った理論をもとに測定手法を開発していくため、測定手法の開発段階で認知能力の高度さについて議論になることはそれほどないように思われる。

つまり、構造的発達心理学では、既存の能力に新たな特性や機能が加わり、これまでの能力ではできなかったことが可能になるという質的変化を「成長・発達」と捉え、そのプロセスを能力の高度化として認識しているのである。振り返ってみると、オットー・ラスキーのIDM時代にも、セオ・ドーソンのレクティカ時代にも、既存の理論体系をもとに測定手法が構築されていたため、能力の高度さに関する議論はほとんどなかったと記憶している。

このように能力の質的差異に着目して高度さを定義していくだけではなく、その他に大きく分けて二つのアプローチがある。一つ目は「規範的アプローチ(normative approach)」と呼ばれるものであり、これは単純に述べると、「他者との比較」である。認知能力を測定した結果、他者と比較して高低を判断するというのが、この規範的アプローチに該当する。

二つ目は「イプサティブ・アプローチ(ipsative approach)」と呼ばれるものである。これは他者比較ではなく、個人内比較を行うものである。例えば、ある領域内の特定の能力が以前の自分の能力と比べて高いのか低いのかを判断するのが、イプサティブ・アプローチである。このイプサティブ・アプローチは質的変化のみならず、量的拡張も含まれるため、ここではあえて構造的発達心理学のアプローチと区別した。

論文の著者は、ある領域内のタスクに従事する際に発揮される「情報を思考・推論しながら処理する速度」を認知能力として捉え、上記のようなプロセスで高度さについて議論を進めている。当然ながら、認知能力に関するこの定義に異論を挟む方もいると思うが、この定義に則って論文を読み進めていくと、一つ考えさせられることがあった。それは特定領域の知識基盤を確立することの重要性である。

私たちの知性が領域特定的な特質を持つため、もはやIQを使って知性を測定するというのは非常に原始的なやり方であるが、知識基盤とIQには興味深い関係があるということをこの論文は教えてくれる。往々にして私たちは、IQの高い人は低い人よりも常に速い速度で情報を思考・推論していると思いがちなのではないだろうか。

実際にはそうではなく、例えば、IQの高い非専門家とIQの低い専門家の両者が、その専門家の領域に関する思考・推論タスクに従事した際に、IQの低い専門家がIQの高い非専門家を凌駕するパフォーマンスを発揮することが明らかにされている。

こうした現象が起こる背景には、知性の領域特定的な性質があるが、より具体的には知識基盤の存在が鍵を握る。専門家はその分野に関する確固とした知識基盤を持っており、その知識基盤が思考や推論速度を上げているのである。

私たちは思考や推論を働かせる時に、現象を組み合わせることや関係性を捉えることを行っている。そうしたチャンキングや関係性把握を可能にするのが、知識基盤という知識の結晶体なのである。簡単なイメージとしては、専門家はこうした知識の結晶体を活用しながら思考や推論に従事することができるため、そうした道具立てを持たない非専門家を凌駕するパフォーマンスが発揮できるのだと思う。

現実世界でよく目にするのは、専門家が発揮する思考や推論能力の高さに対して、非専門家が必要以上に萎縮したり、場合によっては劣等感などに苛まれる光景である。上記で見てきたように、私たちの知性は領域特定的なものであるため、専門家といえど分野を変えればただの人である場合が多く、専門家が発揮する高度なパフォーマンスに対して変に萎縮したり劣等感を感じたりする必要はないのだ。

チェスのグランドマスターとチェスの初心者が、チェスの盤面上に無造作に並べられたコマをしばらく見て、盤面を隠した上で、違う盤面上に先ほどのコマの配置を再現するという実験がある。この実験の結果、チェスのグランドマスターとチェスの初心者はほとんど同じ成績だったのだ。

結果が大きく異なったのは、実際のチェスの対戦上で現れるような意味のあるコマの配置を見た時、グランドマスターは初心者を遥かに凌駕する成績を収めていたのである。

ここからわかるのは、チェスのグランドマスターは、実際の対戦や練習を通じて獲得した意味のあるコマの配置パターンを無数に記憶しており、その知識基盤を用いて思考・推論する力に長けている、ということである。逆に言うと、コマの配置をランダムなものにした瞬間に、グランドマスターの知識基盤は役に立たないものとなり、初心者と変わらないパフォーマンスしか発揮できないのである。

こうしたことからも、専門家に対して過度に卑下する必要はないのである。むしろ、非専門家が専門家を活用する際には、その専門家の領域をきちんと見極めることが重要だと思うのだ。少しでも領域がずれると、その専門家はただの人になってしまうのだ。企業組織においても、外部専門家を活用するケースは昨今ますます増えてきているが、専門家の専門性を見極める眼を養っていくことが専門家の使い手に求められるのではないだろうか。

一方、専門家の側は、自分の専門領域が何であるのかを適切に把握し、専門外の分野に無理に首を突っ込んで低いパフォーマンスを発揮しないようにするという自制心と倫理観が求められると思う。そのような低いパフォーマンスは、使い手に対して何らの貢献を果たさないばかりか、大きな不利益をもたらしかねないだろう。

現在の私は、実務家としては企業社会から使われる側にあるのと同時に、研究者としては他の研究者(専門家)を使う立場にあるため、色々と考えさせられることがあったのだ。使われる立場からすると、知識の性質や知識基盤の性質についてより考えを深めながら、自分の専門性をより練磨していくことと職業倫理を確固としたものにしていく必要があるだろう。

一方、他の研究者から助言を求めたり、共同研究を進めるという専門家を使う立場からすると、相手の専門性をきちんと把握する眼を涵養していくことが自分に課せられているのだと思う。

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