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335. 流れ込む音楽世界


いよいよフローニンゲンも秋に入ってきたようだ。今日の最高気温は20度に満たない。どんよりとした雲が私の手前に見え、青空と薄い雲が彼方に見える。

今朝起きてから、数日前に見た夢について少し考えていた。その夢の中では、幾つかのクラシック音楽の楽曲が組み合わさり、大伽藍となって私の目の前に立ち現れ、色鮮やかに輝きながら動いているのである。その輝きは正直なところ、肉眼で太陽を見るよりも遥かに眩しかった。

夢の中でこれほどまでに煌びやかな輝きを目撃することはあまりない。複数の楽曲が合成されることによって生み出された目もくらむような光を放つ大伽藍の中に私はいたのだ。

これはもちろん、先日の欧州小旅行でシューマン、メンデルスゾーン、バッハなどの偉大な音楽家の博物館を訪れたことと関係しているだろう。博物館を訪れたことによって、彼らの音楽世界がより近づいてきたことは間違いない。

ただし、その夢で現れた大伽藍は優しく私に近づいてきたというよりも、怒涛に迫り来るような何かだったのだ。夢の中で合成されていた楽曲がそれぞれ何だったのかは定かではないが、仮に彼ら三人の楽曲が組み合わさったものが自分に迫ってきていたのであれば、それは耐えることができないというのも納得出来る。

彼らが自分の楽曲を生み出すまでにはクラシック音楽の長い歴史があったはずであるし、彼らの時代から私が生きている現代までに積み重ねられた膨大な歴史もある。その大伽藍は、まさにそうした歴史の巨大な産物であるかのような重みを持っていたのだ。

そもそもなぜこのような大伽藍を私は夢の中で知覚することになったのだろうか?一つには、欧州小旅行をきっかけとして私の中で感覚の純化が起こったからかもしれない。おそらくこうした現象を知覚する意識状態というのは、微細な意識状態(sutble states of consciousness)なのだと思う。

微細な意識状態に参入し、そこで微細な現象を意識的に知覚するためには感覚の純化が不可欠だと思うようになっている。感覚の中に不純物が混入している場合、これほどまでに色鮮やかで壮麗な現象を知覚することはできないと思われるのだ。

感覚の純化によって、日常世界と夢の世界の双方で微細な現象をより把捉することができるようになってきているのは間違いないが、これは私を苦しめることにもつながっているのは確かなようだ。今の私にとって重要なのは、微細な現象を把握できることではなく、微細な現象を生み出す何かを直接掴んでいくことなのだ。

微細な現象に耽溺するとき、その現象を生み出す何かはするりと自分の手からこぼれ落ちてしまう感覚がしているのだ。結局のところ、この大伽藍が現れた夢は、光も影も見てはならないという警告を私に発してくれていたのかもしれない。

影を生む「それ」を見なければならない。光を反射する「それ」を見なければならない。影と光に騙されてはならないのだ。影を生む「それ」と光を反射する「それ」を掴む必要があり、もしかしたらそれは本当の自分なのかもしれない。8/29/2016

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