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330. 成熟の余地


欧州小旅行からオランダに戻ってきても、まだ不思議な感覚が自分の中で脈動しているのを感じる。咀嚼できていない無数の経験が自分の血肉となるための順番待ちをしているようなのだ。

この順番待ちの列はなかなか解消されず、列の最後尾あたりにいる経験が痺れを切らせて蠢いているような感覚なのだ。残念ながら私の方から意図的に介入しても、この行列の解消には無益であるように思われるため、最善の選択と思われる「経験を寝かせる」あるいは「経験を熟成させる」ことを静かに進めていきたい。

それにしても改めて、自分の内面世界には言葉にならない無数の感覚が広がっていることに気づかされる。ある感覚を捉えたと思っても、また次に新しい感覚が芽生えてくるのである。

このように、自分の内面世界において未だ言葉にならない無数の感覚空間が広がっていることは、それがまさに自らの内面的な成熟の余地なのだと思う。未知なる感覚と向き合い、その感覚を表現するにふさわしい新たな言葉が生まれた時、自分の内側に一段深い現実世界が広がっていくことに気づく。言葉とは内的世界を開拓していく重要な役割を担っているのだ。

「言葉」というのも実に面白い働きをするものだ、と今回の欧州旅行で思わされた。ドイツ語圏やフランス語圏において、片言のドイツ語やフランス語を喋ろうとする時に、間違いなく日本語・英語・オランダ語を使う時とは違う感覚が内側に芽生えるのである。

言語は内面世界を規定し、言語の数だけ内面世界が存在するというのはとても妥当性がある指摘だと思う。また、日本語にせよ英語にせよ、一つの言語を彫琢し続けていくことは、その言語で構築される内面世界を間違いなく豊かなものにしてくれると思うのだ。

自分が用いる言語の質が変容することは自己の変容を意味する、ということをこれまでの経験からひどく痛感している。そして言語の変容がもたらす自己変容は、さらに感覚の変容をもたらす。

その感覚の変容が再び言語の変容を促すのだ。言語・自己・感覚のどこが始点となるのかまだ特定できていないが、いずれにせよ、私たちの内面世界はそれら三つの要素の相互作用によって深まっていくようである。

これら三つの要素を眺めてみたときに、自己と感覚に直接的に介入していくことは難しいのではないかと思わされる。というのも、ピアジェの発達理論が示すように、運動感覚段階から形式論理段階に移行してしまった成人において、感覚を直接的に鍛錬することは難しいのではないかと思われるからである。

成人期を超えると、感覚に直接的に働きかけをしようと思っても、どうしても形式論理段階の産物である言語が介入してしまうのだ。

やはり幼児期の運動感覚段階において、その段階を十分に体験するということをしておかないと、後から感覚を発達させていこうと思ってもなかなか難しいと思うのだ。もちろん、感覚というのも質的な発達を継続的になしうるものであり、様々な身体実践によって開発することは理論上可能である。

ただし、そうした身体実践を感覚に任せて行なっているだけでは、皮肉なことに当の感覚は発達しないのだと思う。感覚と言語は密接に結びついており、成人は基本的には言語を主要な道具とする形式論理段階にいるため、言語を鍛錬することによって感覚を開発していく道の方が成人には適していると思うのだ。

感覚を豊かにし、世界をより深く経験するためにも、自らの言葉を鍛錬することが重要になると思わされる日々である。

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