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269. 空、そして出発


——人が自己の根底に持つオリジナルな本源的な知覚。それの探求のために、考究のために、また検討のために、人は出発するのだ——森有正

日本を離れる時が来た。今日という出発の日は、どんよりとした雲が空を覆っている。だが、雲の合間からわずかばかり青空がこちらを覗いている。

現象の表面に囚われず、絶えず本質を捉えようとすること。表面的に見えている雲の大群の裏には、紺碧の青空が広がっているということ。そして、紺碧の青空のその先には、広大な宇宙が存在しているということ。それを忘れてはならない。

そんなことを思いながら、チェックインカウンターに向かった。そこで思わぬ光景に遭遇した。リオデジャネイロ五輪の日本代表陸上選手一行がニューヨークへ出発するということで、報道陣が大勢駆けつけていた。

おそらく、同じような思いで、そして一人一人異なる意味を携えて、彼らと私は日本を出発するのだろう。

多数の報道陣を後にし、私は外貨両替場に向かう。オランダのフローニンゲンではクレジットカードの利用が不便であるから、一ヶ月分の生活費をユーロに替えておいた。ヨーロッパの広大さに比べ、ユーロ紙幣の小ささに思わず笑みがこぼれた。

手荷物検査を終え、パスポートに出国スタンプが押された。このスタンプが「入国」に変わる日付はいつになるのだろうか。いつかその日が来ることを思いながら、空港のラウンジへ向かう。

空港のラウンジから、一機、また一機と飛行機が飛び立っていくのが見える。そして、一機、また一機と飛行機がやって来るのも同時に見える。日本から世界へ、世界から日本へ。

今の自分の心境を「希望で満ち溢れている」と表現することは、極めて不適切だと感じている。「無」という大海の中に、一粒の希望を投げ入れた時に生まれる波紋のような感覚なのだ。大きな波紋がだんだんと小さな波紋になり、無に還っていく様子が心の眼を通して見える。

私の今の気持ちは、希望という名の小石であり、小石が生み出す大きな波そのものであり、それが徐々に小さくなって無に還っていく変化そのものであり、無そのものなのだ。こんな気持ちを二度と味わうことはないだろう。

ラウンジで焙煎した一杯のコーヒーを味わうのと同じぐらい、この気持ちを十分に味わうことは重要であり、全くもって重要でもないのだ。そんなことは本質ではなかった。

全てを飲み込む無の世界を突き破ってでも、そこを通って進むしかないのだ。ただ一点、この「それでも進む」という己の姿勢にのみ、自己の本質を感じるのだ。

自分には前も後ろも関係なく進むことしか、ただひたすらに進み続けることしかできない。それが私という一人の人間なのだと思う。

フライトの時間が刻一刻と静かに忍び寄り、そして堂々と自分に向かってくる。

自己の目醒めからの出発。そして未知なるものへの出発。それは、ヨーロッパという未知なるものかもしれないし、そこで生まれ変わる未知なる自分へ向かっての出発かもしれない。

人間の成長とはつまるところ、こうした出発の繰り返しなのだろう。常に常に出発する。いつもこの瞬間も新たな始まりなのだ。自分には始点しかないのだ。

始点から出発し、再び新たな始点に行き着く。この過程を取り巻くものは絶望なのか、希望なのか。いずれだとしても、もう自分は次の始点へと向かって進むことしかできない。一点の曇りもないこの断固とした思いを携えて。

空港内のラウンジを見渡すと、様々な人たちが自分を取り巻いていることに気づく。目を輝かせている子供たち。神妙な面持ちでパソコンを眺めているビジネスパーソンたち。ラウンジを片付けている人たち。

これら全ての人たちと共に私の世界があるのだと思った。フランクフルト行きのフライトの時間が迫ってくる。

刻む秒針のリズムに合わせて、張り詰めた私の魂が高鳴っていく。真夏の日本に深呼吸して、私は出発することを腹にくくった。二度と戻れぬ今という自分に別れを告げて。

ついにフライトの搭乗アナウンスが響き渡った。私は「一足入魂」の思いで日本の大地を噛み締めながら搭乗ゲートに向かった。

ゲート近くにある大きなな窓ガラスから曇り空が見える。肉体の眼だけで世界を見ないこと。心の眼で、いや、魂の眼でこの瞬間に広がる世界を見ることが大事なのだ。

私の視線の先には、広がる紺碧の空があった。魂の視線のさらに先には、新たな世界への出発があった。2016/8/1

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