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263. 忘却と発達


気づきを得るというのは、ある対象を掴み取るということだけを表すのではなく、掴んだ対象から新しい何かを「開く」ことも意味しているのではないだろうか。ある対象に対して気づきを得ることによって、その対象に光が帯び、その光がまた別の対象を照らし出すという連続的なプロセスである。

昨年、学ぶことに関して大きな洞察を得たことによって、日々気づいたことをノートにメモするようにしている。メモを後からじっくり見返すために行っているというよりも、とにかく気づきを書き出すという行為によって、自分の内側の思考や感情を外に出すことに何かしらの意味があると感じている。

私たちの手は、外にはみ出した脳であると言われる。書物を読みながらの気づきや、ふとしたことから得られた気づきをノートに書き残すという手を動かす学習を心がけてから、随分と学習の質に変化があるように思う。

そして、書物や体験から得られた情報を真に血肉化するためには、取り入れた情報から一旦離れる、あるいは忘れるというプロセスが不可欠なような気がしている。情報を取り入れる際は、確かに五感を総動員して、自分のこれまでの体験や経験に引きつけてその情報と向き合う必要がある。

しかし、その後は取り込んだものが深層に沈んでいくまで待つ必要があるように思うのだ。咀嚼した情報が自分の身体と存在の深奥に養分として染み込んで初めて、その情報は自分の血肉として組織化するための材料になるのではないだろうか。

重要なのは、情報を五感を総動員して取り入れ、自身の体験と照らし合わせながら咀嚼するということに加え、忘れるというプロセスをあえて挟むことである。忘却という行為は、私たちの養分になり得ない不純物を排出してくれる働きがあるのではないだろうか。

仮に五感を全て使えないとしても、外部にはみ出した脳である私たちの手を使いながらノートに書き出すことによって、情報の咀嚼化が加速され、忘却への準備として機能するのではないかと思っている。また、毎日一定程度の文章を書くという実践を継続していると、どうやら書くことは自己を特殊な意識状態に導くようなのである。

哲学者ヘーゲルの親友でもあった詩人のヘルダーリンは、書くことによってある種のトランス状態に入っていたというエピソードがある。このエピソードと自分の体験から考えると、もしかしたら書くことが特殊な意識状態を誘発し、自己変容と自己治癒をもたらす可能性があるのではないかと思う。

日々の学びや体験を言葉によってあえて固定化させることによって、流動性が保たれる。あるいは、学びや体験という継続的な運動の余地を作り出す。ある意味、学びや体験を一旦言葉で閉じることによって、再び新しい何かが開ける気がするのだ。

複雑性科学の領域に多大な貢献を残したロシアの化学者・物理学者のイリヤ・プリゴジンが指摘するように、システムは外側に開けば開くほど、そのシステムは変化する可能性を帯びるのだ。書くという行為を媒介にして、動的なシステムである私たち自身を一旦閉じ、新たに開いていくことによって、さらなる変化が起こるのではないかと思うに至った。

こうしたことを考えてみると、気づきにせよ、経験にせよ、発達にせよ、様々なものは連続的な性質を帯びていそうだということが見えてきた。

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