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232. 実相


いつも記事の内容に合わせた写真や絵画、もしくはその時の自分の気分を代弁してくれる写真や絵画を添付している。これまでの記事に添付された写真や絵画を改めて眺めてみると、非常に変化に富んでいることに気づかされる。

写真や絵画が肯定的・否定的なものであろうと、いずれにせよ治癒的な効果を私にもたらしてくれていることを実感する。実際に写真や絵画として自ら表現する方が望ましいのかもしれないが、それらを眺めているだけでも治癒的な効果があるというのは有り難いことである。

この一年間は、大量に専門書を読むことが続いていたように思う。8月からは研究者としての専門的なトレーニングを再び開始し、そこでは書籍よりも学術論文を大量に読むことが想定されていたため、これまでの時期はあえて論文から離れ、専門書籍を読む方向に舵を切っていた。

発達科学の領域のみならず、他の領域もおそらくそうであろうが、基本的に最先端の学術的成果は書籍には反映されていないと思う。つまり、その分野で現在話題になっている研究テーマや最先端の知見というのは、書籍を読んでいては得られないのだ。

特に知性発達科学の分野に関しては、30年以上も前のパラダイムに則った発達理論(例えば、ロバート・キーガンやビル・トーバートの発達理論)がようやく日本で紹介され始めているという状況にある。ケン・ウィルバーのインテグラル理論を母体とする発達理論もそうした一昔前のパラダイムのものであるため、それらに基づいて知性や能力の発達について考察を深めたり、実践を進めていくことには大きな限界があるように感じている。

日本の翻訳文化の豊饒さには目を見張るものがあるが、そうした文化に安住し、翻訳書に頼りすぎるのは「他者依存的」な探究を助長しているように思う・・・。そのようなことに思いを馳せながら、今朝も特殊な意識状態に参入した。

不思議な意識状態が継続している。目に映るもの、耳に聞こえるもの、身体と意識に入るそれら全てのものが常に真新しいものとして感じられるのだ。

見たことのある景色、見たことのあるもの、聞いたことのある音、食べたことのあるもの、本来すでに経験済みの烙印を押してしかるべきものたちが、なぜか新鮮なのだ。新生児が日々新しいものと接するかのごとく、今の私にとって、取り巻く全てのものが新しい。

昨日、「電車」というものを見た。この電車はこれまで何度も利用したことのあるものであるし、「電車」という概念が一体何を指すのかも把握しているつもりであった。しかし、その電車が突如、非常に新鮮なものとして自分の内側に入り込んできたのである。

より正確には、これまで見逃していた「その電車を電車たらしめている “電車性”」にハタと気づいた感覚である。そこに私は、電車の実相を見たような気がした。

電車の実相を目撃したまま、その電車に乗車し、私は街に向かった。その街もこれまで何度も訪れたことのある場所である。そこでもまた全てのものが実相を輝かせていた。

道行く人たちの顔がなぜ全て違うのかとても不思議であったし、それら全ての人が持つ “その人性”というのも実に多様であることを改めて発見した。そうした差異を見つめながらも、そこには人間に共通の普遍的な何かも同時に開示されているような気がした。

いずれにせよ、見慣れたはずの街が真新しいものとして体験されるということ、道行く人たちの実相が開示されるという体験もまた自分にとって新しいものであった。

この不思議な意識状態は、深い夢を見ている感覚に近いのかもしれない。私たちは深い夢を見ている時、私たちの小さな自我は溶解している。あるいは、私たちの自我は深い夢の中でくつろいでいると言える。

深い夢の中で覚醒しながら生きている。深い夢の中で覚醒していることに自覚的な自分を通じて毎日を過ごしている。今の自分の姿はそのように表現されるかもしれない。

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