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221. 言葉の空き箱に経験を注いで


時に軽やかな、時に重厚な旋律が聞こえてくる。全身に飛び込んで来る壮麗な旋律に呼応して自分の内側の感覚が動きだす。

私はいつも音楽に囲まれている。私はいつも音楽に支えてもらっている。そんなことをふと思った。

というのも、日々の書斎での仕事には、必ずクラシック音楽が伴奏者として付いてくれているからだ。音楽に背中を支えられ、音楽と共に走り続けている自分がいる。

伴奏者の顔は実に多彩である。クラシック音楽と一括りに言えども、その分類は多岐にわたる。そのため、私は自分の内側の流れに応じて、作曲家や演奏形式を選択するように心がけている。

最近は、昨年母に勧めてもらったジョージ・ウィンストン(George Winston)というアメリカのピアニストやマリア・ジョアン・ピレシュ(Maria João Pires)というポルトガルのピアニストの曲を聴くことが多い。

仮にクラシック音楽という伴奏者がいなければ、日々の仕事は極めて単調になってしまうだろう。楽曲が生み出す壮大な流れの中に身を置くことによって、一定のリズムを保ちながら日々の仕事に取り組めるのだと思っている。

音楽を全身で浴び、音楽の流れと自分の内側の流れが出会う時、そこには新しい流れが生まれる。その流れを感じながら、私はこれまでの自分の言葉には何かが流れていないと思っていた。

言葉に血が通っていなかった、と言ってしまえばそれまでであるが、それでは少し舌足らずな感がある。これまでの私の言葉を眺めてみると、どうもそれらは「空き箱」のように見えるのだ。言葉の空き箱。

言葉の空き箱に何かが不在であるため、私は自分の言葉に対して、どこか虚偽的・防衛的なものを感じ取っていた。不在だった何かが最近ようやく浮かび上がってきたのである。それは、「経験」と「存在」である。

私たちの経験というのは、まさにその人が全てを総動員して獲得していくものであり、そこには必ずその人の血が流れている。ましてや、私たちの存在は私たちそのものであり、そこには血が通う以上の何かが込められている。

そうした性質上、経験や存在が込められていない言葉は、実に空虚で味気ないものとして感じられるようになってきたのだ。言葉の質感と密度に対してたいそう敏感になりすぎている感もなくはないが、経験と存在が不明瞭な言葉の反乱に対して不正義に見て見ぬ振りをすることはもはやできない自分がいるのも確かである。

今すぐに実行するのは難しいかもしれない。しかし、自分の言葉に経験と存在を注ぎ込む努力を怠りたくはない、そんな思いがやって来たのである。言葉に経験を、言葉に存在を注ぎ込みながら今を生きたいと思ったのだ。

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