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216. 未だ名もなき大切なもの


——ものを名づけるという行為は、創世記にあるように、ものを存在させることである——辻邦生

今日街中を歩いている最中、自分にとって懐かしい曲が耳に飛び込んできた。その曲は私の足を止めた。足が止まった瞬間に、背筋から頭蓋骨のてっぺんに向けて駆け抜ける何かが走った。

一瞬の出来事であったが、その曲が流行していた時代にひとっ飛びにタイムスリップした感覚とともに、当時の記憶の凝縮体のようなものが自分にぶつかってきた。その凝縮体との出会いの直後、私は懐古的な思いと自分の行く末に対する形容しがたい思いが混じり合った感覚の中にいた。

先日、ある知人の方とカフェで話をしているときにふと、「加藤さんにとって大切なものは何でしょうか?」という問いをいただいた。あまりにも重みのあるこの問いに対して躊躇し、明確な回答など出しようがなかった。

「大切なもの」と聞いた時、世間一般で例示される諸々の「大切なもの」と呼ばれる群像をかき分け、それに捕らわれることなく自分が思う大切なものへと一直線に進むことは相当難しかった。

昨夜、就寝前に書物を読むという自分の中で設定している禁忌を破ってしまった。案の定、思考の渦に飲み込まれ、深く夢見の意識状態に入ることができず、今朝の心身の状態は優れていなかった。

しかし、禁忌を破りながら書物を読む中で、「自分にとって大切なものは、自分の内側の世界と外側の世界にある未だ名もなきものなのかもしれない」と思い立ち、即座にメモを書き残していた。直近の米国での4年間の生活と昨年1年間の日本での生活を通じて、これまでは全くもって名付けることのできなかったものたちが、自分の内面世界に次々とやって来る事態を目の当たりにし、これは一体全体何なのかを不思議に思っていた。

名をつけることは、そのものを言葉によって切り取り、固定してしまうことにつながるのかもしれない。しかしながら、名を得たそのものたちは、同時にこの世界で居場所を獲得し、様々なことを私たちに教えてくれる。

名もなき訪問者に名前をつけることは、その訪問者を間違いなく自分の世界に引き入れることになるため、確かに慎重にならざるをえない。だが、これまでの自分の人生を振り返ってみると、数多くの名もなき訪問者が一回限りの出会いとして自分の元へ訪ねて来てくれたにもかかわらず、それらを自分はことごとく見殺しにしていたことに気づかされた。

あくまでも一人の探究者として大切に思っているもの、大切にするべきものがあるとしたら、それは名もなき訪問者を受け入れ、名前をつけさせていただくことにあるのかもしれない。

名もなき訪問者とは、まさに自分の内側の世界からやって来る未知なるものであるし、自分の外側の世界からやって来る未知なるものである。

今日もたくさんの名もなき訪問者が自分のもとを訪れ、未だ訪れぬ名もなきものたちが自己の内側と外側にある、という確信の中に自分なりの生きる意味が潜んでいるような気がするのだ。

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