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209. バイリンガル教育と知性の発達


発達理論ゼミナール実践編講座」の受講生とのやり取りの中で、言語と発達に関する論点が挙がったことがある。特に、バイリンガル教育を安易に推し進める昨今の風潮に対する話題であった。

どんな言葉をどんなレベルで運搬できるかは、認知的発達と密接な関係を持っている。言語は精神生活の大きな拠り所であり、私たちは言語を頼りに意味を構築して自分という存在を規定している。そのような性質上、母国語をしっかりと習得することなしに他言語を学び、言語能力が不安定な場合、それはそのまま精神生活の拠り所を失うことにもなりかねない。

こうしたことを考えると、安易にバイリンガル教育を推し進めるべきではなく、強固な母国語能力を涵養することがやはり先決のような気がしている。ただ皮肉にも、発達測定をしていて思うのが、母国語一つの運搬能力を鍛錬することさえもいかに難しいかということである。

本来、言語の運搬能力の高まりと意味を構築する力は連動しており、それはすなわち、言語の運搬能力の高度化は内面的な成熟と密接に結びついていることを意味する。これは、己の言葉を鍛えることなしに、己の内面を鍛えることなどできないことに気づかさてくれる。

母国語一つとってみても、その運搬能力を確固としたものにするのが困難であるにもかかわらず、「日本人は英語を話す能力が欠けているから、読み書き能力よりも話す能力を真っ先に鍛えましょう」という風潮が広まることは極めて危険だと思っている。

こうした風潮には、日本語の鍛錬よりも英語の鍛錬を優先させようとする危険性と書き言葉の鍛錬よりも話し言葉の鍛錬を優先させようとする危険性が内包されている。ここにはさらに上記で指摘した、精神生活の確固たる拠り所を持つことができない可能性を生み出すという臨床心理学的な観点からの危険性と、内面的な成熟を阻む可能性を生み出すという発達心理学的な観点からの危険性も並行存在している。

確かに私がアメリカに留学した時、自分の話す力の欠如に愕然とし、英語独特の音を発音するために舌の筋肉を鍛えることから始めたが、結局のところ、英語空間での精神生活を屈強に支えるのは話し言葉というよりも、書き言葉の質に左右されると気付いた。そのため、個人的には徹底的に読み・書きの力を鍛錬することが英語教育における最優先事項だと思うのだ。

しかし言うまでもなく、英語での読み書きの力を鍛えるためには、そもそも母国語での読み書きの力が十分になければならない。そして、母国語での読み書きの鍛錬は学校教育で完結するものでは決してなく、一生涯人間が成長を遂げていくためには、一生をかけて取り組むべき一大事業だと思っている。

金銭を獲得するという小事業に躍起になる前に、人生におけるこうした重大な事業を適切に認識しておく必要があると思うのだ。

この一年間、私は日本語への渇きを癒すかのごとく、貪るように和書を読んだ。それによって、自分がいかに日本語を知らないかに気づいたし、自分の日本語運搬能力に関しても改善の余地が無限に残されていることを発見した。この無限の改善の余地がまさに、終わりない精神的成熟の指標であるかのように思った。

日本語の運搬能力をしっかりと高めることをせず、骨と肉の無い英語をネイティブ並みに発音できる国民が大量生産される状況になれば、それは日本の知的基盤を溶解させるばかりか、下手をすると政治的にも経済的にも英語圏の属国になってしまうという危惧がある。そして、それは水面下で、あるいはすでに姿を露わにしながら進行している気がするのだ・・・。

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