
これまで発達理論について182個の記事を書いてきましたが、今回の記事は、その中でも最も重要なものだと位置付けています。
その理由の一つ目は、「私は発達理論というものをどんな思いに基づいて何のために探究しているのか?」という問いに対する自分なりの思想がこの記事の中で露わになっているからです。
二つ目の理由は、「発達理論が内包している限界性とはどういったものなのか?」「発達理論が前面に打ち出していくべき方向性とは一体どういうものなのか?」という論点についても紹介することができたからです。
発達理論に関心を持ってくださっている多くの方にぜひ読んでいただきたい記事です。
主な掲載論点
1:発達段階5の影と闇
2:高次段階崇拝性向
3:段階5を超克するための発達課題「シニシズムとの対峙」
4:発達理論が語る「実証特質」と語らない「規範特質」
5:発達理論が持つべき当為へのパトス
6:「発達は善である」という思想に伴う「前・超の虚偽」
質問:人間にとって、発達や成長がかならずしも幸福や善であったりしないのだとすれば、発達段階5にもそれなりの限界性や病理性があるかと思います。しかも、より高度な発達段階であれば、その闇もより深くなるように思われます。輝かしい発達段階5の影には、どのような闇が潜んでいるのでしょう。
回答:発達段階5の特性が強まってくると、相互発達的であろうとすることによって生じる固有の癒着現象が起こりえます。言い換えると、他者の価値観を尊重することから生じる傍観者的な態度が醸成されてしまう危険性があります。
例えば、学問の世界においては、しばしば「学際的探究」という麗しい言葉が叫ばれ、多様な学問領域を尊重し、それらを架橋するような試みがなされています。そうした試みの背景には、学際的な学問を志す段階5的な態度が存在していると思いますが、実際のところ、そうした態度は往々にして実を結びません。
お互いに自分自身の学問領域の盲点を知りながらも——盲点を自覚的に対象化するためには、かなり高度な認識能力を要するため、盲点の自覚化ですら稀な現象かもしれませんが——、他の学問領域と自分の学問領域が持つ固有の価値を尊重しようとするあまり、お互いの盲点を掘り下げて吟味し、切り捨てるべき箇所を断固として剥ぎ落とすことができない、という事態に陥りがちです。
思うに、こうした傍観者的な態度は、発達段階5を超えていかなければ解消されないのではないかと見ています。つまり、段階5への移行過程や段階5に到達した段階では、どうしても「他者尊重」という罠に捕らわれ、傍観者的な態度を払拭することができないと考えています。これは、段階5に到達する過程や段階5に到達した時に生じる固有の限界や病理だと言えます。
また、段階5に到達すると、確かに認識世界が極めて豊かになります。しかしながら、様々な現象の深層を把握できるがゆえに生じる独自の苦しみが芽生えてきます。
段階5に到達すると、もはや現実世界の種々の問題が他人事ではなくなり、常に自分の存在と不可分のものであるという認識に至ります。現実世界の種々の問題の根源は大きく深いものでありながらも、さらには、自分の力ではなんともしがたいとわかっていながらも、それと格闘することを強いるような力が背後からやってきます。
換言すると、段階5以上の人たちは、自分の存在を遥かに超えた時代精神や社会体制が個人や共同体を脅かすものであれば、それらと闘うことを半ば強制的に課される宿命にあると見ています。自分の存在を凌駕する大きなものと闘うことが、ほぼ勝ち目のないことであったとしても、それらと対峙し、時代精神や体制の歪みを是正するような闘いに乗り出していきます。
これは、当人の意図を超えて生じることであり、そうした闘いに挑まざるをえないことは、実存的にも精神的にも相当過酷なことだと思われます。段階5に固有の闇や影は、もはや属人的なものというよりも、集合的な闇や影と重なり合い、かなり実存的なものであると言えます。
また、これは段階5の闇や影というよりも、段階5の人を取り巻く人たちの闇や影と言えるかもしれませんが、どうも高度な認識能力を獲得している人物を崇拝するような傾向が、人間の中に本質的に備わっているのではないかと見ています。
つまり、神を盲目的に崇拝するのと同様に、高度な認識能力を有する人物を盲目的に崇拝するような傾向があるように思うのです。しかし、構造的発達心理学の枠組みが開示する真実は、単に各発達段階が持つ「実証的な特質」であって、「規範的な特質」ではありません。
実証データを精査してみると、そこには多様な質的差異が見られ、それを構造として区分けした結果が各発達段階の実証的な特質になります。しかし、構造的発達心理学の問題は、それらの各発達段階が持つ特徴を明らかにするだけであり、その内容の真偽は問われないことにあります。
簡単に述べると、構造的発達心理学は、段階5の人の行動論理を説明することはできるのですが、その人の行動や発言が道徳的・倫理的に正しいものなのか、という規範的な特質を一切説明することができないということです。
キーガンの測定尺度ではありませんが、私のメンターであるザッカリー・スタインとカート・フィッシャーという研究者は、ナチスの声明文の段階構造を調査した結果、それが極めて高度な認識能力によって構築されていることを突き止めました。
しかし、言うまでもなく、ナチスの声明文がいかに高度な段階によって生み出されているとしても、その内容を精査せずに、直ちに信用することは大きな間違いだと思います。高度な認識能力を有する人を盲目的に崇拝することによって、これまで人類は様々な悲劇を経験してきました。
いただいた質問と少し逸脱してしまいましたが、上記は段階5を取り巻く人たちの闇や影、さらには構造的発達心理学が内包する闇や影と言えるかもしれません。
【質問者の方からの応答】
発達段階5においては、自らの価値観との同一化が克服され、それを他者の価値観と同列に眺めることができるようになり、このような変化は他者の受容という側面においては、まさしく一大進歩ではあるけれども、「他者の尊重」が今度は傍観者的態度に帰結する恐れもある、という訳ですね。自己と他者というのは、ほんとうに複雑で深い問題だと改めて痛感させられました。
また、「現実世界の種々の問題の根源は大きく深いものでありながらも、さらには、自分の力ではなんともしがたいとわかっていながらも、それと格闘することを強いるような力が背後からやってきます」という加藤さんの言葉も、非常に興味深いものでした。
私の素朴な感想を述べますと、この力と適切に対峙することに失敗すると、「どうせ世の中なんて変わらない」というある種のシニシズムに陥ってしまうのではないかと思いました。これは無理からぬことだと思います。
というのも、加藤さんもご指摘の通りで、高度な認識能力をもってして世界と自己を眺めてみれば、あまりにも明白たる己の限界性に直面せざるをえないからです。このシニシズムとどう決着をつけるか、というところも発達段階5における大事な課題なのではないか、と考えた次第です。
次に、「構造的発達心理学の枠組みが開示する真実は、単に各発達段階が持つ『実証的な特質』であって、『規範的な特質』ではありません」という記述についてですが、この箇所は、実は私が加藤さんに追加で質問させていただこうかと考えていたトピックと密接に関連しています(いささか論点がずれている部分があるのは承知の上で、このホットなトピックについて所感を述べたいと思います)。
それは、「成人発達理論は、何のために存在しているのだろうか?」という論点です。具体的に述べれば、「成人発達理論は、あくまでデータの分析から抽出した事実を記述することだけがその仕事であって、いかなる当為への志向性も持たないのだろうか?」ということです。さらに、青臭いとのそしりを恐れず言ってしまえば、「自らの理論を社会に役立てようとするようなパトスを、持ち合わせてはいないのだろうか?」ということです。
多くのポストモダンの思想群と同調するように、成人発達理論も事実の解明に関しては目を見張るべき多くの成果を上げるいっぽうで、「こうあるべきだ」という当為については、少なくとも明示的には語ろうとしません。自らの理論に対しても、成長や発達がかならずしも幸福や善をもたらす訳ではない、意識段階が高いほうが良いという訳でもない、とその価値中立的な立場を鮮明に打ち出しています。
もちろんこのような立場は、「多様性に対するきめ細やかな配慮」という意味においては健全な態度ではあるのでしょうが、理論を実践的に活用していく場面では、どうしても方向性を伴った価値判断が避けられないと思われるので、私が後ろ暗い想い——「差別主義者!」という良心が上げる非難の声——を抱きつつも、いつも首を傾げてしまう部分でもあります。
例えば、民主主義社会は、発達段階4以上の市民が構成員の多くを占めない限りは健全に機能せず、せいぜい特権階級の交代の実現が関の山ではないかとか、地球環境問題は発達段階5の人びとによる協同的意識があってはじめて、根本的な解決への道筋が示されるのではないか、などと考える訳です。
加藤さんの著作に即して述べますと、普遍的真理や本質論については語らないのが得策であるにしても、現代資本主義経済の重要な経済主体である企業社会を、「よりよいものにする=意識段階を集合的に上昇させる」という価値判断と志向性に基づいて捉え、その目的に向かって思考し行動することに何の不都合があるのだろうか、ということなのです(いや、不都合などないのかもしれませんが)。実際、コーチングの場面では、ある程度当為への志向性が働いているように思えます。
まとめますと、「成人発達理論が規範性を説明しない(できない)のはなぜなのだろうか、方法論的に不可能なのか、価値相対主義者や価値多元主義者の倫理的・禁欲的態度なのか、それとも実は当為への志向性をひそかに模索しているのか、そして、実際のところその当為へのパトスが、実践という回路を通してじわじわと滲み出しているのではないか」ということです。
もっと踏み込んで言ってしまうと、いっそのこと当為や規範性の領域に足を踏み入れてしまえばいいのにと思って、なんだかヤキモキしてしまうなあ、ということなのです。これは素人感覚ゆえの幼稚な叫びなのかもしれないと思ういっぽうで、一抹の真理を見透かした健全な常人的感覚であるようにも思われるので、なんとも歯がゆい気分にさせられます。
長くなりましたが、以上が、私が回答を読ませていただくまで考えていたことなのです。しかしながら、「高度な認識能力を有する人を無批判に崇拝するような傾向」やナチスの例を示していただいて、なるほどと納得させられました。「より高い意識段階を目指すべきだ」などと安易に規範について語ることは厳に慎まねばならないということを、痛いほどに理解することができたのです。
また、当為や規範性について語りえないということは、善なるものの創出について無力かもしれませんが、その無力さゆえに悪に力を付与することもしないという点では、有意味であるかもしれないとも思われます。かといって、規範性について 語りうる理論や、善の創出という積極性への憧憬を、私は捨てきれずにいるということもまた事実なのですが。
そういった訳で、事実——「世界とは何か、人間とは何か」——と当為——「世界はいかにあるべきか、人はいかに生きるべきか」——の統合という問題はやはり難しい、という月並みな感想にたどり着いてしまいました。
飛躍しているように聞こえるかもしれませんが、この問題はそもそも志向性をもたない哲学や思想は存在するのか、という論点にまで行き着くことになるかもしれないとも思われます。
私がおぼろげに理解しているだけでも、ソクラテスにしてもプラトンにしても、トマス、デカルト、カント、ヘーゲル、キルケゴール、ハイデガー、レヴィ=ストロース、フーコー……にしても、事後的にのみ判明するのかもしれませんが、やはり固有の当為や規範性への志向性を抱きながら、世界および自己と格闘した人びとだと思います。
【私の応答】
おっしゃるとおりで、「どうせ世の中なんて変わらない」というある種のシニシズムをどのように超克していくのか、というのはまさに発達段階5に突きつけられた大きな課題だと思います。この課題をどのように乗り越えていくのかに関して、逆説的に響くかもしれませんが、そうしたシニシズムの極限的な深みにまで陥ることが大切なのではないか、と最近考えています。
構造的発達心理学の世界において、「次の発達段階に到達するためには、その段階固有の発達課題を徹底的に味わい尽くすことが必要である」といういささか安っぽい表現がありますが、これは言い得て妙だと思うのです。
高度な認識能力を獲得し始めた時に、歴然と突きつけられる己の限界性を直視することを避けてしまうと、「世界は自分の力で変えられる」というような安直なナルシシズムに陥ってしまうことが起きますが、これは段階4への退行現象を助長すると思っています(段階4は段階2とは違う意味で、「自己肥大」に陥りやすいという特徴を持ちます)。
一方、歴然と突きつけられた己の限界性に打ちのめされ、「どうせ世の中なんて変わらない」というシニシズムに陥ることは、ある種、健全な発達プロセスなのではないかと思うのです。
私たちは、自らの限界性と真摯に向き合い、乗り越え難い限界性に打ちのめされて初めて、その限界を乗り越えようとするような萌芽が芽生えるのではないでしょうか。このように考えると、「人間は、曖昧な世界に放り出されている曖昧な存在」であるということに加え、「絶えず己の限界を痛感し、それに打ちのめされながらもそれを乗り越えていこうとするような存在」なのかもしれません。
そのため、シニスズムを絶望的なまでに突き詰めることが、次なる段階への突破口になるのではないかと考えています。口では簡単に言うものの、これは非常に過酷なプロセスですよね・・・。こうしたプロセスを通過することができる人はほとんどいないため、段階5を超える人は極めて稀であるというのも納得できます。
次に、「実証的特質」と「規範的特質」に付随した論点である「成人発達理論は、何のために存在しているのだろうか?」について、実は、この論点は現在の私の最大の関心事項です。
この論点に強い関心を持った背景には、「発達心理学者の傍観者的な態度」、つまり、明確な規範を打ち立てることをせず、確固たる規範精神を持って現実社会へ積極的に関与することを避けているような態度に憤りを覚えた、ということがあります。
確かに、発達心理学というのは科学の一分野であるため、「真」の領域における探究を第一の使命とするのはわかりますが、多くの発達心理学者は「善」の領域に対して一切無関心のような態度を持っているように見受けられるのです。
自らの探究の成果である「真」が「善」とどのように関係するのか、という考察をしている研究者はほとんどいないため——そもそもそうした問題意識を持っている学者は極めて少ないです——-、「成長や発達がかならずしも幸福や善をもたらすわけではない」「意識段階が高いほうが良いというわけでもない」という価値中立的な立場しか取れていないのではないかと思っています。
ここに、人間の発達を解明しようとする探究者自身の意識構造の限界が如実に表れていると思うのです。要するに、自らの探究領域が「真」を司るものであるという確固たる認識と、それが他の領域である「善」とどのように関係しているのか、ということを考察できるだけの統合的な意識段階を確立している研究者はほとんどいないということです。
その結果として、発達心理学全体の思想傾向が軟弱な価値中立的な立場を生み出していると見ています。こうしたことを踏まえて、私は明確な価値判断と志向性を持って、発達理論を現実世界に活用するという覚悟に至りました。
自分自身を振り返ってみると、「発達」に関して理解の仕方に変遷があることに気づきます。インテグラル理論における「前・超の虚偽」は、非常に単純ながらも本質を捉えた概念であり、「発達」に関する理解の仕方にも適用できるものだと思っています。どういうことかというと、「発達は善である」(前)→「発達は善ではない」→「発達は善である」(超)というプロセスを経て、私たちは「発達」という現象の理解を深めていくのではないかということです。
ご指摘のように、すべての学問は哲学や思想が関与するという性質上、「志向性」というのは避けられないものであり、そうであるならば、発達心理学は「善」に関する徹底的な規範を確立し、そうした規範精神に基づいてさらなる学術探究とその成果を現実社会に還元すべきだ、という考え方を私は持っています。
発達理論がこれから日本で普及していく際に、「発達は善である」(前)という安直な思想が必ず蔓延することが目に見えていたため、私は書籍の中で、そうした安直な思想を切り倒す「発達は善ではない」という考えを伝えるようにしていました。
しかし、規範性の確立や善の創出を避けると、必ずや悪に屈する日が到来してしまうと思うのです。悪に屈しないためにも、当為や規範性の領域に自らを果敢に投げ込み、「発達は善である」(超)という思想を掲げ、明確な価値判断と志向性を携えてこれからの探求活動と実践活動に励んでいきたいと思った次第です。
【質問者の方からの応答】
「『どうせ世の中なんて変わらない』というシニシズムに陥ることは、ある種、健全な発達プロセスなのではないか」「シニシズムを絶望的なまでに突き詰めることが、次なる段階への突破口になるのではないか」というご指摘について。
私がこのご指摘を踏まえて考えたのは、人間の成長の難しさは、絶望を受容することの難しさ、換言するなら、今の発達段階における限界性を思い知ることの難しさに一因があるのではないか(あるいは同義なのではないか)、ということです。
少し視点を変えてみるならば、今の自分を満たしている自己愛、自己肯定を脱構築し乗り越えること——これは、「主体が希薄な状態に移行する」ことの別様の表現であるかもしれません——の難しさと、人間が成長することの難しさは、かなり密接に関連しているのではないか、ということです。現代社会のように、自己愛の傷つきに対して極度に敏感な文化の影響下にある場合はなおさらです。この洞察が正しいとすれば、やはり人間の成長とはかなり困難なプロセスであるといえそうですね。
しかも、優れた理論によって発達の道筋が示されており、絶望なるものも先人たちの努力によって理論化されモデル化されている——この段階ではこういう行き詰まりがあるのだと示されている——としても、その絶望は、実存にとってはほとんど未知の真新しい体験としてわれわれを襲うことになるでしょうから、加藤さんのおっしゃるように、「口では簡単に言うものの、これは非常に過酷なプロセス」になると思われます。
理論化・モデル化の力を借りつつ、絶望を希釈・弱毒化してから味わおうというのなら、絶望は絶望性を剥ぎ取られ、絶望の本義から乖離してしまい、「絶望的なまでに突き詰める」こともかなわなくなってしまいますし。もっとも絶望とは簡単に弱毒化できるような代物ではないのでしょうが。
ここで再び加藤さんのご指摘にハッとさせられるのですが、人間にとって成長や発達とは、「こんなに素敵な新しい私を見つけ出す旅」のような美しいもの麗しいものでは決してなく、それこそ「絶えず己の限界を痛感し、それに打ちのめされながらもそれを乗り越えていこうとするような存在」に課された血みどろの戦いなのかもしれません。極端な表現にも聞こえますが、後者のほうがよほど真実を描写しているように思われます。
そして、こんな闘いに挑む物好き(笑)がいるのだとすれば、いったいどのような人なのだろうか、としばし考えてみました。いくつものタイプが存在するのでしょうが、それはひとつには、良くも悪くも自己愛や自己肯定が揺らぎやすい悩み多き人であり、またひとつには、回答で加藤さんが指摘しておられた「背後からやってくる力」の存在を感じ取り、当為への志向性を胸に抱かざるをえない人、他者と自己との間に横たわる深淵に震撼しつつも、その架橋に挑まざるをえない人であり、要するに、善を希求する人なのではないか、という答えにたどり着きました。
安住の地を見出しえず、善へ向かわざるをえないとき、人は血みどろの戦いへと駆り立てられるのだと思うのです。そして、以上の叙述は自己啓発と自己成長の違いを明らかにしているようにも思えます。
次に、「発達理論を現実世界に活用するという覚悟に至りました」「当為や規範性の領域に自らを果敢に投げ込み、「発達は善である」(超)という思想を掲げ、明確な価値判断と志向性を携えてこれからの探求活動と実践活動に励んでいきたいと思った次第です」という加藤さんの決意表明について。
冒頭でも述べましたが、加藤さんの著作には、やはり加藤さんなりの熱情が秘められていたことを知って、いたく感動いたしました。そして、勇ましく真に知的である、という印象を受けました。現代において、伝統主義や復古主義に陥ることなく善や規範性について述べることは、かなりの勇気と知性を要求されることだと思うからです。
そして、「覚悟」というのは、危険や困難を予測した上でなお自分の決めたことを行動に移そうとすることにほかなりません。だとするならば、私が過日以下のように推測したのも、当たらずとも遠からずなのかもしれません。
すなわち、規範への志向性こそが、加藤さんをして、「時代精神や体制の歪みを是正するための勝ち目のない闘い」、しかも企業社会というニッチでのパルチザン的・ゲリラ的な闘い——ポストモダン状況を生きるわれわれには、どうやらこういう小規模な局地戦しかないのだし、そこで無駄死にしようとしまいと存分に闘い抜くしかないと、私は最近になって悟りはじめた次第です——へと駆り立てているのではないか、そして、加藤さんもまたその「覚悟」を背負って闘いへと一歩踏み出されたのではないだろうか、などと僭越至極ながら推測してしまったのです。
もちろんこのような推測には、遅ればせながら自らのニッチを見出そうとしている私の想いが多分に投影されていることも自覚しておりますし 、想像の域を出ないことを強調しておきたいのですが。
それから、「『発達』に関する前・超の虚偽」というご指摘も、たいへん興味深く読ませていただきました。目から鱗にも似た認識の転換を経験したのです。「餅は餅屋」とことわざにもあるように、われわれはともすると、発達を専門とする発達理論なのだから、その発達観こそが絶対的に正しいものなのだ、などと思い込んでしまいがちです。