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180. 読者の方から寄せられた質問事項(No.4):「曖昧なものの受容」について


拙書 『なぜ部下とうまくいかないのか:「自他変革」の発達心理学』について、新たに頂いた質問をご紹介したいと思います。

質問:「曖昧さについて」 47ページや135ページに出て来る『曖昧なものの受容』というのがなかなかイメージしにくいのですが、何かヒントがあればお願いします。

回答:確かに、「曖昧なもの」とは具体的にどのようなものなのか?そして、それを「受容する」というのはどういうことなのか?本書の中で、それらを明瞭にしておらず、申し訳ありません。

まず、「曖昧なもの」とは、一言で述べると、現時点では明確に認識できない何かのことを指します。そして、現在の認識能力では捉えることのできないものは、ケン・ウィルバーのインテグラル理論で言うところの、4象限的(all quadrants)かつ段階的(all levels)なものとして私たちの目の前に常に立ち現われています。

具体的には、個人の内面領域において、自分の心の中にある見たくないもの、意識したくないものとしての「シャドー」は分かりやすい例です。日常生活を送る中で、私たちのシャドーは気づかないところで諸々のいたずらを私たちにしてきますが、こうしたものは元来、掴み所のない曖昧なものとして心の奥底に存在していると思います。

そうした無意識下に存在している抑圧された思考や感情は、個人の内面領域に存在する曖昧なものだと言えます。本書の中で言えば、これまでは気づかなった自分の思い込みなどは、まさに曖昧なものの一つだと言えます。

そして、身体の状態や物理的身体を超えたエネルギー体の変化などが、個人の外面領域における曖昧なものとなります。p.96の『感情的になる部下への対処法』のエピソードにおいて、山口課長は、利己的な部下の感情的な反応に対して、ついつい感情的な対応をしてしまい、「頭に血がのぼる感じがする」と述べています。

つまり、ここでは、山口課長にとって、室積さんから問いかけがあるまでは、「頭に血がのぼる」という身体状態を客体化できておらず、それは存在しないものとして「存在していた」と言えます。こうした存在しないものとして存在している身体の微妙な変化は、まさに「曖昧なもの」の一例だと考えています。

さらに、集合の内面領域において、所属する組織の精神性や文化、社会の精神性や文化といったものは、私たち個人の心や行動に多大な影響を与えていますが、それらは目に見えないところで常に私たちに働きかけているという点において、それらを曖昧なものとみなすことができるのではないかと思っています。

本書の中で言えば、山口課長の会社で蔓延する「大企業病」という組織風土、さらには、成長を強制するような暗黙的な文化はまさに、これはまでは意識化することができなかったという性質上、それらは山口課長にとって曖昧なものであったと言えます。

4つ目の分類は、集合の外面領域における「曖昧なもの」です。私たちを取り巻く外部環境を冷静に分析してみると、その分析作業は終わりがないことがわかります。

例えば、経営戦略を立案する際に、必ず市場分析を行う必要があると思いますが、「市場」というものはブヨブヨしたお化けのように捉えどころがなく、仮に何かしらの観点とアプローチを持って詳細な分析ができたとしても、特定の観点とアプローチを採用した瞬間に盲点となる箇所が存在していると思うのです。それらはまさに外面領域における曖昧なものと呼べるのではないでしょうか。

本書の中で言えば、山口課長の会社が推進している「次世代人財育成プログラム」は、室積さんとの対話によってその形骸化に気づかされたという意味において、山口課長にとっては曖昧なものであった、と言えます。

そして、曖昧なものは、単に4つの象限を通じて私たちの眼前に立ち現われているのではなく、それらには「段階(レベル)」が不可避につきまとっており、事情をより複雑なものとします。

つまり、シャドーを一つ取ってみても、浅いシャドーと深いシャドーがあり(どの発達段階で形成されたシャドーなのか?など)、身体エネルギーの状態を取ってみても、粗大な身体(gross body)における曖昧な現象、微細な身体(subtle body)における曖昧な現象等々、4つの象限を通じて顕現化する曖昧なものは、それぞれレベルを持っています。

以上が「曖昧なもの」に関する大雑把な説明になります。

そして、それらを「受容する」というのはどういうことかというと、一言で述べれば、曖昧なものを認識し、それらを咀嚼し、新たな認識を生み出していけることだと捉えています。あるいは、別の表現で言えば、上記のような多種多様な曖昧なものに圧倒されることなく、それらを引き受けて生きることができるようになることを「曖昧なものの受容」と呼んでいます。

インテグラル理論で言うところの「統合的な意識段階」とは、そうした曖昧なものを認識し、それらを咀嚼・統合することができる意識の段階だと思います。そうすることによって、私たちの意識はより成熟し、認識世界がより広く・深いものとなっていきます。

そのため、「受容する」というのは、受動的な側面のみならず、新たな認識を獲得することや新たな実践を行うという能動的な側面を持っていると言えます。

こうした説明をさせていただきながら、人間存在そのものが曖昧なものであり、取り巻くリアリティそのものも曖昧なものであるということから、私たちは実にとんでもない世界に放り出されて今というこの瞬間を生きているのだなと思わされました。

【回答に対して質問者の方から頂いたコメント】

AQAL(all quadrants & all levels)を自由自在に駆使したご説明は、非常に解りやすく説得的でした。

お陰さまで、「曖昧なもの」とは、現時点での認識能力では捉えきれないものであり、その「受容」とは、曖昧なものを引き受けて生きることができるようになり、さらにはそれに対する新たな認識を生み出していくことなのだ、と理解することができました。

この事態は、「存在しないものとして存在している」認識不可能な事象を、対象化・客体化し認識できるようになること、とも表現され、また、加藤さんの著作を見返してみると、「心が成長するにつれて、視野が拡大して多くのことを認識できるようになるだけでなく、物事の深みや機微を認識できるようになってきます」(p.27)という記述に、「曖昧なものの受容」の本質がほぼ言い尽くされているようにも思われました。

つまり、以上はすべて人間の発達・成長という同じ事柄の別様の表現であり説明なのだ、というふうに自分の頭の中できれいに繋がりました。私が「曖昧なものの受容」の意味をいまひとつ理解できなかったのは、これを、「成長とは人間としての器が大きくなることだ」と同じような比喩表現として捉えていたからなのだと思います。「曖昧なものの受容」とは比喩ではなく、人間の成長・発達の本質をズバリ言い当てたものだったのですね。

それから、末尾の「曖昧な世界に放り出されている曖昧な存在」というのも、痛く共感しました。これは人間の存在論的真理と言ってもよいくらいに、人間存在の本質をついた鋭い洞察だと思います。それとともに、この事実に想いを致して、私はなんだか頭がクラクラしてしまいました。

「曖昧なものの受容」が進めば、クラクラも軽減するかもしれません(笑)。でも、キリスト者としての私としては、この曖昧さに対して取るべき一つのスタンスは、「被造物としての無知であることの受容」なのではないか、などと現時点では考えています。

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