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179. 貨幣崇拝と成長崇拝


現在、松原隆一郎氏の『経済思想入門』(ちくま学芸文庫)とKenneth Hooverの “Economics as Ideology: Keynes, Laski, Hayek, and the Creation of Contemporary Politics” (2003)を同時並行的に読み進めている。私たち個人の意識の成長・発達は、半ば強制的に集合的な意識によって影響を受ける。

そのため、私たちを取り巻く経済思想や政治思想を理解せずして、個人の意識の成長・発達を理解することはできないと思うのだ。こうした書籍を読み進めながらふと気付いたのは、現代人の「貨幣」に対する捉え方と、「成長」という概念の捉え方は酷似しているということである。

ヘーゲル死後、ヘーゲルの哲学を独自に展開させたヘーゲル左派は、興味深い発想を持っている。ヘーゲル左派は、「神が人間を」ではなく、「人間が神を」自分たちに似せて創造したと考えており、神を創った人間は、自らが創り出した神を崇拝し、その支配下にある、と指摘している。

これは、人間が自ら造り出した「貨幣」を神のように崇拝し、私たちはその支配下に置かれているという現代社会の状況と瓜二つである。自ら作り出したものが私たちと切り離されてしまい、私たちが逆にそれらによって支配され、人間が自己のあるべき姿を見失う状態のことをヘーゲル左派は「疎外(alienation)」と呼ぶ。

多くの人々が貨幣に対して無意識的・意識的に拝跪している姿を見ると、そうした人々は疎外状態に置かれていると言えるのではないか。貨幣を崇拝し、貨幣獲得に躍起になることによって、そうした疎外状態をさらに深刻なものにしているのである。

さらに問題は貨幣だけにとどまらず、同様のことが「成長」という概念に対しても起こりうる。それは、「成長」に対する崇拝と「成長」という概念がもたらす疎外状態だ。

つまり、私たちは自らが生み出した「成長」という概念によって、「より成長しなければ・より成長したい」という脅迫感に駆られ、「成長」という概念を崇め奉ることによってその支配下に置かれてしまうのである。

貨幣を果てしなく追求しようとする飽くなき性向は、「貨幣フェティシズム」と呼ばれる。そうであるならば、成長を果てしなく希求する飽くなき性向のことを「成長フェティシズム」(造語)と呼んでもいいのではないか?

それらはともに同じようなプロセスで生み出され、同じような姿を持っている気がするのだ。

企業社会における既存の人財育成育成やサービス領域として確立されつつあるコーチングが双方に共通して持っている思想は、貨幣獲得競争に向けて無心に働ける人間をより多く生み出し、「さらなる自己成長」という甘言によって、貨幣崇拝のみならず成長崇拝を私たちに強制する装置として働いていると思うのだ。

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